投稿者:河内平野   投稿日:2015年 3月20日(金)14時48分48秒     通報
「大衆に尽くし抜く」という私の精神を、遠くから、じっと見ておられた人がいる。
それが中国の周恩来総理であった。

総理は言われた。

「創価学会は、大衆の中に広々とした基盤を持っている。創価学会を重視すべきだ」

総理も、やはり着眼点は″大衆″であった。

「大衆に尽くす」という私の心と、総理の心が結ばれて、日中の″金の橋″となったのである。
ゆえに、私は初めての訪中(一九七四年)に出発する時、羽田空港で内外に、こう宣言した。

「貧乏人と病人と言われた人たちとともに、私はここまでやってきました。権力にもよらず。財力にもよらず」と。

空港には、多くの見送りの方、中国大使館の方もきてくださっていた。
この「学会の心」を諸君は誇りにしていただきたい。

病人のためにこそ、貧乏人のためにこそ、いちばん苦しんでいる人のためにこそ、宗教はある。

諸君、そうではないだろうか。

断じて、大衆を見さげる、いばりくさった人間が大切なのではない。

私のこの魂――「大衆に尽くし抜く精神」を、諸君が立派に受け継いでもらいたい。

強く清い信心に「仏界」の月宿る今夜(三月十三日)は満月である。
四十年前の三月十六日は、晴天で寒かった。秀麗なる富士が、参加者を見守っていた。

きょうは、はるかな天座から、美しき満月が、諸君を見守っている。師弟を見守っている。

先ほどまで曇って、満月は見えなかった。
″青年部の会合は、いつも雨か曇り″という伝統を、きょうも厳然と守ったかと思ったが、最後に晴れたようで、おめでとう。

それにしても、諸君のキラキラと輝く目。
仏法では、両目を太陽と月になぞらえる。
仏法では、人間を「小宇宙」と説き、頭が丸いのは天球、髪の毛は星、眉は北斗七星になぞらえる。
満月が出ようと出まいと、諸君の目に「光」があれば、それが最高の「月」であり「太陽」なのである。

日蓮大聖人は、門下の清く強い信心を愛でられて、こう仰せである。

「経文には鬼神の身に入る者は此の経を信ぜず・釈迦仏の御魂の入りかはれる人は・
此の経を信ずと見へて候へば・水に月の影の入りぬれば水の清むがごとく・御心の水に教主釈尊の月の影の入り給ふかとたのもしく覚へ候」

――経文には、「鬼神が、その身に入った者は法華経を信じません。釈迦仏の御魂が入りかわった人が法華経を信じるのです」と説かれています。
ですから水に月の影が映れば、水が清らかに澄むように、あなたの心の水に教主釈尊という月の影が入られたのであろうかと、私は頼もしく思っております――。

大切な教えである。
「悪鬼入其身(悪鬼、その身に入る)」というが、昨今の世相を見ても、人々の心に鬼神が入ってしまったかのようである。
社会は乱れ、濁り、闇のようである。どこにも、心からの明るさがない。

(「鬼神」とは、生命の正常なリズムを狂わせ、人の生命力、功徳を奪う働き。思想の乱れ、正法への違背によって、この働きが起きる。
「立正安国論」には「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」という仁王経の文を引いておられる)

悪人、野心家、うそつき、信心利用のずるがしこい人間は、「悪鬼入其身」になってしまっているので、信心ができない。
それに対して、信仰者の心には、「釈迦仏」が入っている。「釈迦仏」とは、大聖人のことであられる。

真の信仰者の胸中には、日蓮大聖人の生命が宿っているのである。

尊いことである。尊敬し合っていかねばならない。