投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2015年 3月19日(木)08時55分22秒     通報
長いですが、今日も池田先生のスピーチを学んでいきましょう。

各部合同協議会 (2005. 7.16)

「功労の友を讃えよう」

さて、社会を改革する上で、孔明が実行したポイントは何であったか。
その一つは、先日もお話ししたが、「悪事をなした者は必ず罰し、善事をなした者は必ず顕彰」するという点にあった。(陳寿『正史 三国志』5、井波律子訳、筑摩書房)

これは、戸田先生の厳しき教えでもあった。
戦って戦って戦いぬいた人は、必ず賞讃せよ! 一生涯、また一家も、子孫までも賞讃せよ!
反対に、戦うべき立場にありながら、敵を前にして戦わない、ずるい人間は必ず罰せよ! 悪事をなした者にはみずからの行動の報いを受けさせよ!――と。

先生は、「仏法のために働いた人間は、どこまでも賞讃すべきだ。しかし、難と戦わずに逃げた人間、ずるい人間は絶対に許すな!」と叫ばれた。正邪に関して厳格であられた。
ゆえに私は、広宣流布のために尽くしぬいてこられた皆さま方を、最大に賞讃し、永遠に顕彰してさしあげたいのである。

歌といえば、戸田先生とご一緒して、人と会った時のことを思い出す。

先生は、「大作、何かいい歌を歌ってさしあげなさい」と、よく言われた。歌が得意でない私は一生懸命に歌った。懐かしい思い出である。
先生は、どこへ行くにも、私を連れていかれた。「大作は、私の片腕だ」とも言われた。飛行機に乗って地方へ行く時も、日本中、どこへ行くにも一緒だった。親子以上だった。

世界にもご一緒したかった。だから私は、上着の内ポケットに恩師の写真を入れて、世界広布の第一歩を踏み出した。そして今も、恩師と心の中で語りあっている。戸田先生と私は、どこまでも一体である。戸田先生は、弟子を、本当に大事にしてくださった。徹底して薫陶してくださった。
本物の弟子がいれば、師弟は「不二」となる。そうすれば、未来は安心である。

反対に、本物の弟子がいなければ、その団体は滅びる。根幹の「師弟」の精神をないがしろにして、いくら勢力を増しでも、結局は崩れていく。
ゆえに先生は、同志を苦しめ、裏切る反逆者には鉄槌を下した。その本質を鋭く見抜かれた。「悪い枝は切っておかないと、必ず乱される。悪人は、厳しく追放せよ」と訴えられた。

ともあれ、広宣流布のために戦う人を、どこまでも大事にする――これが学会の伝統である。
皆さまは、私とともに「平和の道」「民衆の勝利の道」を厳然と聞いてくださった。誇りある善の勝利者として、栄光の人生を、永遠に歩んでいく方々である。幸福の大道を真っすぐに進んでいっていただきたい。

「ともに祈り、ともに前進を!」

ともに祈って、戦う。ともどもに祈りぬいて、勝つ。これが「法華経の兵法」である。
学会はこれまで全国各地で、婦人部を中心に唱題の渦を起こしてきた。ともに心を合わせて真剣に祈り、戦ってきた。これほどすばらしい常勝のリズムはない。
有名な「生死一大事血脈抄」には、こう仰せである。

「総じて日蓮の弟子檀那等が、『自分と他人』『あちらとこちら』と隔てる心なく、水と魚のような一体の思いになって、異体同心で南無妙法蓮華経と唱えたてまつるところを、生死一大事の血脈と言うのである。しかも今、日蓮が弘めていることの肝要は、これなのである。
もし、そうであるならば(弟子檀那等がこれを実行するならば)、広宣流布の大願も実現するであろう」(御書一三三七ページ、通解)

要するに、広宣流布の同志が異体同心で題目を唱えゆくところにこそ、生死一大事の血脈が流れ通うと教えておられるのである。
わが学会には、御本仏の仰せどおりの模範の実践がある。同志と心を合わせ、御本尊に合掌・冥合しゆく姿ほど、神々しく、荘厳な光景はないのである。

日蓮大聖人は、「御義口伝」で、「合掌」について、その深義を展開しておられる。(御書七二二ページ)
御本尊に向かって合掌し、唱題する時、私たち自身が妙法の当体となる。仏の生命がわき上がるのである。
ともあれ、唱題は、わが生命を大宇宙の根源の法則に合致させ、「本有常住の仏界」を開き、あらわしていく、もっとも崇高な儀式である。白馬が大草原を駆けゆくがごとく、すがすがしく、さわやかな音律でありたい。

また、唱題中に念珠を、せわしなく、もみ続けたりするのは、望ましい姿とはいえないであろう。念珠は「仏道修行を助けるためのもの」であると、日寛上人は記されている。(「当家三衣抄」)

もちろん、念珠をもんではいけないというのではない。たまに軽くもむのは、むしろ自然な姿かもしれない。しかし、あまりに激しくもむことは、周囲の人に落ち着かない感じを与え、皆の祈りをさまたげてしまうことにもなろう。細かいことであるが、「小事が大事」であり、「諸法は実相」である。ゆえに、おたがいに心がけていきたい。
ともあれ、「祈りとして叶わざるなし」の妙法である。祈りを具体的に明確に定めて、一つ一つ、祈りきり、祈りぬき、勝ち進んでまいりたい。

「創価の師弟に勝るものなし!」

戦後、戸田先生の事業が苦境におちいったときである。当時、戸田先生のもとでお世話になっていた人たちが、一人また一人と先生のもとを去っていった。なかには、「戸田の馬鹿野郎!」「インチキ野郎!」と捨てぜりふを残していった者もいたのである。その醜い豹変の姿は、今もって私の胸から消えることはない。
戦時中、牧口先生が軍部権力に逮捕されたときもまた、態度を一変させて、「牧口の馬鹿野郎!」と罵り、退転していった人間がいた。第一に学会を守り、また会長を守るべき最高幹部が次々と退転していったのである。

この嵐の真っただ中にあって、戸田先生お一人が、牧口先生とともに、不退転を貫いていかれた。しかも、戸田先生は、「あなた(=牧口先生)の慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」(『戸田城聖全集』3)と言われている。
他の弟子たちが、師匠の悪口を言っているときに、戸田先生だけは、牧口先生に最大に感謝された。経文どおりの命におよぶ大難に遭ったことを最大の誇りとされた。
これが、創価学会の師弟である。仏法の究極の師弟の姿である。

私も、「同じ心」で師匠である戸田先生にお仕えした。
戦後の混乱のあおりを受けて、戸田先生の事業の挫折は、深刻を極めていた。事態を聞きつけた新聞記者が取材にきた。まかり間違えば、先生に法律的な制裁が科せられる恐れもあった。そのために先生は、学会の理事長も辞任されたのである。
債権者は戸田先生の自宅にまで押しかけていた。まさに絶体絶命であった。
このとき、戸田先生が、私におっしゃった言葉が忘れられない。

「大作、頼んだぞ。命のあるかぎり、戦いきってくれ」と。
戸田先生は、若き私を心の底から信頼してくださった。「大作がいれば、心配ない」と。
私は、「先生、戦います」と心に誓い、御本尊を抱きしめるような思いで祈った。「戸田先生をお守りさせてください。私に力をください」と。
そして、自分のすべてをなげうって、阿修羅のごとく、戦って戦って戦いぬいたのである。
給料は、何カ月も遅配のまま。木枯らしが吹く季節になっても、オーバー一つ買えなかった。持病の肺病にも苦しめられた。他の青年のように、ゆっくりと外で食事をするような時間もなかった。
しかし、偉大なる師匠とともに、二度とない青春を悔いなく戦える誇りと喜びで、わが心は王者のごとく輝いていた。

私は、望んでいた進学も断念し、三百六十五日、先生のおそばで働いた。
「そのかわり、ぼくが大学の勉強を、みんな教えるからな」と、漢文、経済、政治、法律、化学、天文学など、ご自身の持てる万般の学識を、私に注ぎ込んでくださった。
その薫陶があったればこそ、今の私がある。
晩年、戸田先生が、しみじみとこう言われた。
「大作、本当にすまなかったな。お前には、どれだけ助けてもらったかわからない。永遠にお前のことは忘れないよ」

わが子以上に、弟子を愛してくださった、慈父のごとき師匠であった。まことにありがたき、会いがたき、不世出の師匠であった。この厳粛なる「師匠と弟子の結合の力」によって、今日の世界的な学会の土台が築かれたのである。「師弟不二」こそが学会の根本の道である。
御書には厳然と仰せである。

「よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず」と。
広宣流布という大目的に向かって、師弟の呼吸を合致させていけば、必ず事は成就する。反対に、呼吸が合わなければ、何事も成し遂げることはできない。広布の戦いは勝てない。これが大聖人の御確信である。