投稿者:ヨッシー   投稿日:2015年 3月12日(木)13時03分32秒     通報
少し戦闘モードになることをお許し下さい。
yさんは、「先生が当事者のときに破門されたわけですから、自身の存命中にケリを
つけることは当然であり、責務と考えます」と主張していますが、先生は2002年の
会則改正で、すでに「ケリをつけられた」のではないですか?
今回、改正をしたいと言い出したのはyさんの尊敬するT川ら「四人組」です。
「学会が損をしたり、学会員が苦しんだりしないように」
「今までやってきたことが間違っているとならないように」
「大御本尊と決別するなどとは言っていない」
「そこまでする必要があるのか。今は事件を起こしていくというのは小さい考え方だ。
もう少し流れの様子を見ていきなさい」
という先生のご意向を無視して、「大御本尊との決別」宣言など拙速で“余計”な改定
を強行し、騒擾事件を起こし、学会員を苦しめているのは、T川ら四人組です。
存命中だからといって、その尻ぬぐいまで先生の責務だというのですか!?
yさんは「任用試験で三大秘法、出世の本懐で教える側が自信を持って説明できない
ような教学をいつまでごまかし続けるおつもりですか?」ともおっしゃっていますが、
昨年8月に出た任用試験の教材の「大白蓮華」では、2002年の会則やそれに準じた
朝晩の御祈念文に則って、“立宗以来「二十七年」目にして、「出世の本懐」を遂げた
と宣言され、弘安2年10月12日に一閻浮提総与の大御本尊を建立された”と
説明されていました。教える側はいままで通り、出世の本懐=大御本尊建立と自信を
もって説明していました。
ところが、任用試験の2週間前になって突然、「大御本尊は受持しない」「出世の本懐
は大御本尊建立ではない」と原田会長が発表して、現場は大混乱。しかも、「受持しない」
「出世の本懐ではない」と変更しながら、朝晩の御祈念は相変わらず「大御本尊に南無し
奉り・・・」のままの矛盾。
受験者にどう教えればいいのか、教える側に自信をなくさせたのは、
四人組ではないですか!!
この掲示板にも、こんな投稿が残っています。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/15332
> 今回の任用試験、私も男高2名と共に週に二回集って勉強している
> さてと、どうしようか?
> 大聖人 出世の本懐 弘安2年
> メンバーにお詫びしなれれば 「ごめんなさい!教義を急に変更したようです、
> 昨日の話は間違いでした」
> そんなに急ぐ必要があったのかよ この野郎って感じ(笑)
「愚かな味方は敵より怖い」といいますが、yさんのT川擁護は擁護になっていませんよ。
傷口に塩を塗っているだけです。
またyさんはこんなこともおっしゃっていますよね。
> 釈迦、日蓮、永遠の指導者といっても、間違いや欠点もある同じ人間と思っていますから、
> 無謬論や神格化はあまり好きではありません。
> (遠藤総合教学部長は)教義的信念を持って、日興遺戒まで持ち出して、
> 会長や法主の無謬論を非難されていましたが、先生に対しては意向に沿ってなければ、
> 腹を切ってお詫びすると書かれていました。
> 無謬論には先生は対象外になるのはおかしくないでしょうか?
> 人は誰でも過ちを犯すものだと思いますので、日興遺戒の考えでいえば対象外の方は
> 先生といえどもいないというのが、わたしの考えです。
「人は誰でも過ちを犯すものだ」というのが真理だからといって、そこから一気に、
「釈迦、日蓮、永遠の指導者といっても、われわれと同じ人間」さらには「永遠の指導者
秋谷も原田もT川も同じ」というところへ飛躍するのはいかがなものでしょうか?
ご存じのように、2002年の会則改正で初めて「三代会長」の位置づけがなされました。
「前文」で「『三代会長』に貫かれる師弟不二の精神と広宣流布実現への死身弘法の実践
こそ『学会精神』であり、永遠の規範である」とされ、
「(三代会長)
第3条 牧口常三郎初代会長、戸田城聖第二代会長、池田大作第三代会長の『三代会長』は、
広宣流布実現への死身弘法の体現者であり、この会の永遠の指導者である」
と規定されました。
これに対して、4代目以降の「会長」は第 53条において中央本部役員のうちの一人とされ、
第79条では、中央本部役員であっても、「その職務を行なうにつき不適当であると認めら
れるときは、この会則またはこの会の規程に別段の定めのない限り、その選任手続と同様
の手続により、これを解任することができる」
と定められています。
つまり、「永遠の師匠」すなわち「永遠の規範」となるのは初代、二代、三代の会長まで
であり、4代目以降は、場合によっては解任されることもある立場に過ぎません。
(詳しくは、イササカ先生の諫言書「遠藤文書」の真相【補足説明編】を参照して下さい。
http://sgi-shiteifuni.com/?p=369)
この会則からすれば、日興遺誡置文の「時の貫主為りと雖も、仏法に相違して・・・」
の対象となるのは、4代目以降の会長であって、三代までは対象外と考えるのが当然では
ないでしょうか。
「先生を対象外にするのはおかしい、同じ人間だから」というのは、会則で定める
「永遠の師匠」を「舐めた」「小バカにした」考えだと思いますよ。
私がyさんの発言で、最初に違和感を覚えたのは、「日寛修正本尊」という表現です
(「日寛修正本尊がOKなら、歴代会長が書写しても、ネットの本尊を印刷しても、身延の本尊
でも理屈の上ではOKになってしまうことになりませんか?」)。
これは、日顕宗の連中が学会制定本尊は、浄圓寺の日寛上人御本尊の首題の髭文字の髭を
伸ばして見栄えよく修正していると喧伝したのを真に受けた表現ですよね。
池田先生が平成5年にこれを拝もうと打ち出された創価学会制定の御本尊を
「日寛修正本尊」と言い放つ学会員に、初めて出会いました。
師匠が拝もうと言った御本尊を、敵方と一緒になって「修正本尊」と揶揄れるのですから、
師匠を舐めている、小バカにしているとしか思えません。
yさんには、何か池田先生に対する深い失望というか、反感というか、奥底にどす黒いもの
がありますね。池田先生が宗門との対決に突き進んだことで、親兄弟親族が分裂したとか
何か嫌な思いをする体験をなさったのですか?
それはさておき、実は、この「師匠」を軽く見る生命、同じ人間としかみない生命が、
「昭和54年問題の本質」だったわけです。これは、私が言うのではありません。正木
理事長が方々で語っていたことです。2009年1月には、こんな話をされています。
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正木理事長指導(2009年1月)
数年前から池田先生は54年の勇退の問題についてかなりストレートに触れられるように
なりました。皆さんもお気づきだと思います。本来であればきっと活字にはならないだろ
うなと思われるそういう54年問題に触れたご指導が、もう夏の最高協議会そして本部幹部
会のスピーチ等で活字にまでなってまいりました。私は何故、今、先生がこの54年問題に
触れられるのか、そのことの意味を自分なりに解りたい、こう思ってそのことを考え続け
て参りました。(中略)
そう考えていたとき、本年の年頭の最初の随筆で先生は重大なことを述べられました。
54年問題という言葉は一つも出てきません。そして当然ながら勇退という言葉も出て行き
ません。しかし、皆さんも覚えおられると思うんですが、今年最初の随筆に地涌の菩薩に
ついて先生が触れられた箇所があったのであります。
もう一度、皆さん是非読み直していただきたいと思います。何故地涌の菩薩が出現した
か、又地涌の菩薩の出現の意味とは何であったか。それを先生はこう言われております。
「釈尊という大師匠は、彼らが漫然と決めつけていたような、小さな存在ではない。永遠
の生命力を具えた、桁違いの仏なのだ。その師匠の真の実像を、久遠の弟子である地涌の
菩薩たちが電撃的に示していったのである。それは、「師匠はこんなものだ」という思い
上がりや慢心、「自分はこれまで十分、戦ってきた」という惰性や傲りなど……弟子た
ちの抜きがたい胸中の限界を打破した。そして、もっと偉大な、もっと尊高な力に気づか
せ、さらに、元初の師弟の誓いに目を覚まさせていったのだ」(聖教2009年1月6日付
『人間世紀の光』上)
とこうありました。
私はこの随筆を読んだ瞬間に、ある意味でこれこそが54年問題の本質だったのだと気づ
きました。次元はもちろん違いますが、皆さん今の先生のご指導で気づかれたように、あ
の地涌の菩薩の出現の意味はさまざまな多面性があるわけですが、一つ言えることは、そ
れまで声聞の弟子たちは、釈尊のことをこの世で修行を積んで初めて悟りを開いた始成正
覚の仏としかみておりませんでした。しかし、我々の師匠はそんなものではないと地涌の
菩薩は宣言をしました。久遠の本仏なのだということを地涌の菩薩は宣言をしました。
あの54年問題の本質とは、師匠をどう見たか、どうとらえたか、弟子の側の問題です。
先生をただ三番目の会長としかみない、歴代の会長の一人としかみない。そういう弟子の
師匠をとらえる視点。もし池田先生が学会永遠の魂であり永遠の師匠であるととらえたら、
あんな対応になっていただろうか。こう私は思います。まさに年頭最初の随筆で先生が
このことを言われた意味、それはまさに54年問題の本質ではなかったかと。
そう考えれば、もう側近にいた誰かが悪いなどという浅薄なとらえ方で、人の責任に
押しつけて澄ました顔をしているような問題ではない。自分自身もまさにその一人では
ないか、先生が言われる不肖の弟子、師を守りきれなかった弟子の 自分も一人だと猛
反省をして立ち上がらなかったら先生が今指導されている意味がない。私はそう思います。
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今回の「会則改定混乱問題」の本質も、昭和54年問題の本質と全く一緒です。
先に紹介した「創価教学確立への動向」の現況分析を見ても分かる通り、
「大御本尊との決別」すなわち日寛教学からの脱却を主導しているのは、秋谷
古参幹部たちです。池田先生は“戒壇本尊には触れるなよ”と、それにブレーキをかけ
ようとされた。ところが、秋谷らは、従わない。なぜなら、先生を「永遠の師匠」とは
思ってはいないからです。
自分たちと同じ「戸田門下」の一人、単なる「3番目の会長」としか見ていない。だから、
先生のご意向といえども「絶対」とは思っていないし、無視しても何の痛痒も感じない
のです。
原田、長谷川、T川らも、結局、同じ穴の狢。秋谷らの意向に逆らえない。全くの
与同罪です。
これに対して、「学会は『池田先生が基準』ではなく『会長が基準』なのでしょうか」
「創価学会は、いついかなるときも『池田先生が基準』なのではないでしょうか」と、
真正面から原田、長谷川に問い糾したのが、遠藤総合教学部長です。
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私どもの行動を「分派活動」と非難されましたが、私どもの主張のほうが正義であり、
「執行部による性急な学会教義改変」のほうが池田先生の御指導に沿っていないので
あれば、むしろ変更を無理に推し進めようとした行為のほうが、「池田先生を師とする
創価学会」から逸脱しようとする、いわば「分派活動」となる――客観的には、こう
いう理路になってまいります。
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「会長の指示を阻止しようとして会合するのは分派活動という主張が成り立つ前提は、
「会長の指示が、御書と三代会長の指導に照らして、間違いなく正しいものである」
ことです。
反対に、会長の指示が御書と三代会長の指導と異なっているにもかかわらず、関係
者の再三の指摘にも耳を貸さず、強行するのであれば、それこそ大切な多くの会員
を自らの「仏法違背の道」に巻き込み、道連れにしていく「分派活動」に他なりま
せん。そうではないでしょうか。
こうした「分派活動」を阻止することは、真の仏弟子の使命であります。
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「遠藤文書」につづられたこの赤誠の諫言が耳に逆らうとしたら、yさんがすでに
「池田先生を師とする創価学会」から逸脱しているからに他なりません。
これは、明らかに、創価学会会則に叛する重大な違背です。
重要なことなので再説します。
創価学会会則は、三代会長を「永遠の師匠」即「永遠の規範」と定めています。
そこから出てくる当然の理は、「池田先生が基準」です。ところが、四人組らは
「会長が基準」と主張します。
これは、日蓮正宗が「日顕宗」と変質したのと全く同じ過程です。
日蓮正宗は本来、日蓮、日興、日目の初代、二代、三代が永遠の規範です。
にもかかわらず、日顕らは有師化儀抄の「先師先師は過去して残る所は当住持計りな
る故なり、住持の見たもう所が諸仏聖者の見たもう所なり」(宗開両祖をはじめとす
る代々の先師上人はすでに過去の人となって、現に在るのは当代の血脈付法の大石寺
の貫首上人のみである。よって当代の貫主上人の一切の振る舞いが仏の所作となるの
である)とかを引っ張り出して、「現在の師(大石寺住持たる血脈付法の御法主上人)
に信順して師弟相対する姿を通じ、御本仏大聖人に師弟相対することろが事行の妙法
蓮華経であって、そこに即身成仏が存する」などと言い出したのです。
ここから、創価学会は、日蓮正宗のことを「日顕宗」と呼ぶようになりました。
“初代、二代は過去して、三代も死に体。残るは前会長、現会長ばかりなる故に
前会長、現会長が見たもう所が三代会長の見たもう所なり”――これが現執行部の
ホンネであり、“宗旨”ではないでしょうか。
こうなったら、もう「秋谷原田宗」と呼ぶしかないですね。
「創価教学確立への動向、私の認識とほぼ同じで大賛成です」と言うyさんは、
完全に「秋谷原田宗」の人間です。
もっとも、yさんは、原田会長のことを「単なる事務屋で締めの話もつまらない
お役人ぽい方」と小バカにしていますので、「秋谷T川宗」と呼んだほうが正確
かもしれませんね。
特に、「この掲示板を見ていたら、時期早々の問題をことさら大きく膨らませ、
改正を行った現執行部に責任があるかのようなスキャンダル暴露合戦、みていて
同じ同志と恥ずかしく思いますよ。歴代会長を含め完璧な聖人君子なんかいない
訳ですから、たたいてほこりだすことが悪との戦いとでもいうのですか?」
などと言って、T川の醜聞の数々を歴代会長を引っ張り出してまで庇い立てしよ
うというのですから、完全な「T川宗」です。
これでは、三代会長が、374919事件や偽装寿退社事件の男と同レベルの
人間みたいじゃないですか。どこまで永遠の師匠を貶めれば気が済むのか・・・。
釈尊、日蓮、永遠の師匠をわれわれと同じ人間とのみ見るのは間違ってます。
同じ人間でありながらも、われわれと同じ地平ではなく、われわれが目指すべき
高みにある偉大な存在と見るもう一つの眼を持たなければなりません。
日蓮仏法の真髄は、「本因妙の仏」です。
「本因妙の仏」とは、「本因」という修行途中の不完全な位でありながら、
「仏」という完全な境地にあるという「妙」(不可思議)な存在という意味です。
そういう不可思議な偉大な存在が現に実在しているわけです。
われわれは、その偉大な存在を「永遠の規範」として自らを律して、同じ高みを
目指していかなければならないのではないでしょうか。
無謬論や神格化は嫌いだからといって、「産湯(たらいの水)と一緒に赤子を流す」
のは愚かです。
(つづく)