投稿者:信濃町の人びと   投稿日:2015年 3月 9日(月)16時59分25秒     通報
代表幹部研修会(3) (2005. 8.15)

弟子の道を貴かれた日興上人

日蓮大聖人が御入滅される五日前のことである。弘安五年(一二八二年)十月八日、大聖人は、門下のなかから、日興上人をはじめ六人を選び、本弟子と定められた。「六老僧」である。信徒は散在していた。大聖人は、御自身の亡きあとを展望され、各地の責任者を定められた。
当時三十七歳の日興上人は静岡・富士方面と山梨の門下を指導し、広宣流布を進めていかれた。

大聖人は「其の国の仏法は貴辺に まか任 せたてまつり候ぞ」と仰せである。
リーダーが使命の天地で立ち上がり、全責住をもって、広宣流布を進めていく。大聖人の時代も、そうであった。創価学会も、これと同じ方程式にのっとってきたのである。

しかし、日興上人を除く「五老僧」は、大聖人の期待を裏切り、退転した。大聖人から法門の一切を受け継がれた日興上人から離れていったのである。五老僧は、大聖人の墓所の守護にあたる輪番制も守らず、大聖人の一周忌法要にも参加しなかった。末法の御本仏である日蓮大聖人の弟子でありながら、弾圧を恐れて「天台沙門(天台宗の僧)」「天台の弟子」と名乗った。

五老僧は、いわば当時の「最高幹部」である。それが、大聖人の御精神に、ことごとく背いていったのである。人間の心とは、一面、恐ろしいものだ。
五老僧は師匠を蔑しろにした。慢心であり、我見であり、虚栄であった。日興上人への嫉妬もあった。学会を裏切り、退転・反逆した人間も、本質は五老僧と同じであった。″自分が偉くなりたい″″名声を得たい″という卑しい心であった。
日興上人は仰せである。

「大聖人のお弟子(五老僧等)は、ことごとく師敵対してしまった。日興一人、本師(大聖人)の正義を守って、(広宣流布の)本懐を遂げるべき人であると自覚している。ゆえに、大聖人の御本意を忘れることはない」(編年体御書一七三三ページ、通解)
「日蓮聖人に背いた師たちを捨てないことが、かえって罪になるという法門である」(編年体御書一七三四ページ、通解)
日興上人は、決然と立ち上がられる。正義と邪義を、徹底的に、明確にしていかれた。