2015年3月9日 投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2015年 3月 9日(月)09時53分17秒 通報 青年部幹部会、学生部・未来部総会 (1992. 9.12) ゴーゴリー「魂の内にこそ普遍的法則はある」 アイトマートフ氏は、十九世紀のロシアの文豪・ニコライ・ゴーゴリ(一八〇九~五二年)のことを高く評価されている。 私が「第三文明」誌で連載している「続・若き日の読書」でも、十月号にはゴーゴリの大作「隊長ブーリバ」を取り上げた。戸田先生のもとで学んだ懐(なつ)かしい小説である。 ゴーゴリは、晩年の大作「死せる魂」を執筆するにあたって、こう語っている。私の大変好きな言葉である。 「一歩毎、一行毎にもっと賢くならねばならぬ」ことを痛感させられた、と。そして「わたしが前進すれば作品も進む。わたしが止まれば作品も止まる」と。 ゴーゴリは、自分に惰性を許さなかった。一日一日、一瞬一瞬、学び続け、前進し続けた。つねに「新しい目」で世界をとらえようとした。 真の仏法者も日々、新たな自分に向上していく。成長し続ける人、前進し続ける人、それが信仰者である。 またゴーゴリは、「魂の内にこそ普遍的法則はある」として、「何よりも先ず、みずからの魂への鍵を見出だすことだ。ひとたびこの鍵が見出だされれば、それは万人の魂を開くだろう」と述べている。 魂の「宝の蔵」を開くカギ──それをゴーゴリは求めた。多くの先人は求めた。その解答、そのカギを私たちはもっている。そして、妙法の信仰という「魂のカギ」を、現実に万人に弘めているのである。 釈尊も仏敵には容赦なき攻撃 さて、現在、青年部は機関紙の「創価新報」等で、正義のための言論戦を展開している。それについて「あまりにも激越すぎるのではないか」という意見もあるが、仏法においては、仏敵に対しては容赦なく手厳しく追及していくのが、根本精神なのである。大聖人もそうであられた。釈尊もそうであった。 たとえば、釈尊と極悪の仏法破壊者・提婆達多との戦い──。それは、絶対に妥協が許されない仏と魔との戦いであった。釈尊は、提婆達多の「嫉妬」と「陰謀」のドス黒い心を鋭く見破り、断固として戦った。 御書には、その様子を、「世尊・提婆達多を汝愚人・人の 唾つばき を食うと罵詈せさせ給しかば」──釈尊が、提婆達多を「お前は愚か者だ。人のつばきを食べるような(下劣な)人間だ」と、ののしられると──と記されている。 釈尊の言葉は厳しかった。激しかった。容赦なかった。多くの仏弟子たちの面前で、遠慮なく、提婆達多を叱責した。 プライドを傷つけられた提婆達多は、凶暴な本性を明らかにし、釈尊殺害を画策する。 しかし、釈尊の破折も勢いを増す。「提婆達多が、その身において、またその語においてなすところは、もはや仏法僧の事ではない。ただ提婆達多の所作なのである」 形は僧侶であっても、その言動は仏法者のものではない。ただ提婆達多という、衣の下の″個人″が勝手に言い、動いているだけだ──と。 また「提婆達多は地獄に堕して、一劫(測りがたいきわめて長い時間)の間、もだえ苦しむであろう」と、厳しく提婆達多を責めた。 それは、ある意味で、仏が発したとは思えないほど痛烈な言葉であった。 弱き民衆に対しては、一人一人を抱きかかえるように守っている慈悲深き釈尊。その釈尊が、提婆達多に対しては、辛辣をきわめた。一体、なぜ、そこまでするのか──。 そのことをめぐって、一つの逸話が残されている。 あるとき、提婆達多が結託していた阿闍世王の弟・阿婆耶(無畏)王子が釈尊をやりこめようと、釈尊を食事に招いて、問答を挑んだ。 「仏は、人が快く思わない言葉を語ることがあるでしょうか」──つまり、仏ならば″ない″はずである。もし、そんな言葉を発したとするならば、仏と凡夫との区別はないではないか、と。 そう問いつめれば、提婆達多を厳しく責めた釈尊は、返答に困るであろうという思惑であった。しかし釈尊は、その手にのらない。相手が喜ばない言葉を仏が発しないかどうかは「いちがいに言えない」として、王子を諄々と、諭した。 「王子よ、もしも、あなたの子供が誤って小石を口に入れたとすれば、あなたはどうしますか」 王子は、ちょうど、子供を自分の膝に乗せていたのである。 「もちろん、子供のために、それを取り出します。簡単に取れなければ、指を口の奥深く入れて、たとえ血が出るようなことがあっても絶対に取り出します。それが、我が子に対する親の慈悲でしょう」 それを聞いて釈尊は、きっぱりと言った。 「仏が、人が快く思わない不快な言葉を発するのも、それと同じことです。その言葉が真実であり、価値を生み、また多くの人をも救うのであれば、仏は時を見定めたうえで言い切っていくのです。それは、すべて慈悲の心から生じるのです」と。 今、私どもが、堕落し腐敗しきった宗門に対して厳しい糾弾の声をあげるのも、同じ方程式にのっとっているのである。決して世間的な単なる悪口などではない。法にかなった行動なのである。 彼らは、師である大聖人に違背した仏敵である。言うべきことを言わなければ、大聖人の仏法が破壊されてしまう。皆が不幸になる。 正法を守るため、民衆を守るために、激烈なまでに叫び、断固として言い切っていく──それが仏法者の精神である。「大聖人の信徒」としての当然の務めである。 魔は、言い切った分だけ切れる。中途半端であったり、妥協した分だけ、魔の毒気が広がっていく。この道理のうえから、諸君も真の仏法者、真のリーダーとして、ご健闘をお願いしたい。 Tweet