投稿者:ロマン   投稿日:2015年 3月 7日(土)13時23分20秒     通報
『若き日の日記』:昭和32年

2月22日
12時発にて、大幹部と登山。
暖冬、春の如し。
了性坊、寂日坊の落慶式。先生もお元気にご出席。無理をなさっておられる。少しお休みになっていただきたいことを、胸の中で思う。
「大幹部にこの1年で、10年間のことを指導し、指示する」と、厳然たり。
「阿諛諂佞(あゆてんねい)の輩は全部切る」と。しかり。かつ「組織を乱しゆく者、信心利用の者も、また同じ」と。また、しかなり。
終わって、大講堂引き渡し等、種々の準備。

3月29日
先生、お身体の衰弱甚だし。
「あと、2~3日です。何も事故はありません。ご安心しておってください。大幹部も、だんだん来ております」と、申し上ぐ。
先生、ご安心しきったお顔で、「そうか」と申される。
その時、「追撃の手をゆるめるな」と、毅然たる語調でお叫びになる。大将軍の指揮に頭(こうべ)垂れるのみ。

3月30日
午前11時55分発の列車にて下山する。I支部長と共に。満員列車にて、品川まで、立ち通しであった。暖かい一日であったが、胸奥(きょうおう)は苦しい。疲れきった、闇の如き一日であった。
2時過ぎ、目黒の先生宅に、お邪魔する。先生の入院について、御子息、奥様とお話しする。奥様は「自宅に帰ってもらいたい」と。御子息は「入院」と。私どもも入院をおすすめ申し上げる。しかし、胸奥は「本部に帰る」との先生のご意思を、そのまま、お通しすることが、私の責務であることにも迷った。
どん底に落ちゆく気持ちである。弟子として、力弱き自分をなげく。ああ、一生取りかえしのつかぬ自己を、厳しくみる。これに報いるは、先生のご精神を、生涯、貫き通す以外にない。
先生宅にて、7時過ぎまで、種々、入院の準備に苦心する。疲れる。全く心身共に疲れた。
久しぶりに自宅に帰る。
法戦に――戦場に生きゆく運命を思う。

3月31日
午前中、先生宅へ。さっそく、奥様と共に、タクシーにて駿河台の日大病院へゆく。あまり良くない部屋にて、再三、交渉。弟子として、せめて、最善の部屋(病室)をと頼みしも、通らず。全くくやしい。H博士も「応急的の段階なれば、了承されたし」とのこと。
やむを得ず決める。しかし、治療に対しては、全力最善を尽くされるよう、篤と頼む。
1時30分「西海」にて、再び登山。5時少々前に着く。ただちに、理事長、理事室に報告。
先生のご容体、すこぶる悪し。帰京を延ばしたい。H博士は「よろしい」という。
一晩中、休まず、階下にて、先生をお護り申し上げる。「五丈原の歌」を思い出す。
理事長、理事室、最高首脳と、ほか青年部同志数人、同座。皆、口数も少なし。

4月1日
午前1時40分、先生を東京にお連れ申す準備をする。丑寅の勤行の最中であった。
日淳猊下のご心境、先生のお心、いかばかりか。今世のお別れとなられるか。恐れ多くも、猊下には、勤行を早目に終えられ、お見送りに来られたとのこと。
今日の大宗門の繁栄に、心を砕いてこられた日淳猊下、猊下をお護り申し上げて、身命を捧げて戦ってこられた地涌の菩薩の総帥、戸田城聖先生、三世につながるお二人の深く縁(えにし)を、深く尊く、考えずにはいられない。
理境坊の2階より、午前2時ちょうど、出発。
フトンのまま。「先生、お供いたします」と申し上げると、「そう、メガネ、メガネ」とおっしゃった。メガネを、お渡しするいとまもあらず、心残りなり。階下より、担架にて、車にお運びする。2時20分。
奥様と医師同車。続いて、理事室、私共の車。最後に青年部の車であった。
月おぼろにして、静寂なる田舎道を、沼津駅へ。三度、四度、車止まり、先生の容体を伺い、また注射をなす。
3時45分、沼津駅に到着。
4時15分発急行「出雲」に乗る。「先生、これで安心です」と申し上げたところ、「そうか」との微笑は、永久に忘れることはないだろう
早朝、6時45分、東京駅着。一睡もせず、沈痛な気持ちで、担架でお降ろし申し上げ、ただちに、駅側の配慮により、エレベーターにて寝台車におはこびする。
ただちに、私どもは、日大病院前にて、お待ち申し上げる。
お疲れと、重体なるお顔に、胸がせまる。
ああ、世界の大偉人の最後のご帰京となられるのか、心で題目をあげるのみ。全快を祈るのみ。
ただちに、K博士、H医師の手当てあり。9時過ぎ、一切の手続きを終わらせ、ご家族にお願いし、会社に帰る。
万感、ただ、平癒を祈るのみ。弟子、皆同じ。
一日中暖かな日であった。されど、弟子一同の心、暗雲の如き気持ちは、いかようにもなし難い。
われらは、更に、自己の信心を磨くべきである。自己の建設をなすべきである――無数の偈(げ)、去来して一日を送る。
4月2日
朝、緊急に、部隊長会議を招集する。心急ぐ感あり。先生のご容体非常に悪し。
1週間、部隊長全員にて、本部にて勤行することを決意する。
午後、本部にて、秘書部長より「先生の経過良好になる」との報を聞き、われは狂喜。
5時より、理事室、青年部首脳と、連合会議をなす。
6時45分、管理部のH老より、真剣な表情で、私に「病院から子息、喬久君より電話」とのこと。風の如く、管理室の電話を受く。喬久君より、落ち着いた語調で「ただ今、父が亡くなりました」との悲報を受く。
この一瞬、われ、筆舌に尽くし難し。愕然たる憶念は表記でき得ず。永劫(えいごう)に、わが内証の座におく以外なし。
ただちに、重大会議になる。
先生のご遺志は、清らかに水の流れの如く、広布達成まで流れゆくことを祈る。強くなれ、と自分に叱咤(しった)。
早速、日大病院の病室に、理事室、青年部首脳のみ、馳せ参ず。
静かなる永眠のお姿に、はたまた、微笑したお顔に、感無量。滂沱(ぼうだ)。
嗚呼(ああ)、四月二日。四月二日は、学会にとって、私の生涯にとって、弟子一同にとって、永遠の歴史の日になった。
ただちに、日淳猊下へ電報、細井尊師へ連絡、ご親戚へ連絡。
先生のご遺体にお供して、目黒のお宅に帰る。小雨、少々降る。
細井尊師おみえくださる。
理事室、青年部首脳にて、死水を。
妙法の大英雄、広布の偉人たる先生の人生は、これで幕となる。しかし、先生の残せる、分身(ぶんしん)の生命は、第二部の、王仏冥合実現の決戦の幕を、いよいよ開くのだ。われは立つ。