投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 5月 3日(日)12時42分34秒     通報

「広宣流布のために自分に一体何ができるのか」-このことを常に念じ、考えていくことが地涌の菩薩の心ではないか。私が心がけていることは、「自発」であるかどうかであり、宗教が義務になってしまったら、それはもはや宗教とは呼べない。いかに一人ひとりが自発の信心ができるかが、創価学会としての課題でもあり、問題意識とするところであります。

就中、5月3日とは、自らの決意で立ち上がり、願いを立て、行動を開始する日であると心得ています。どんな人にも力はあります。力が0という人はいません。現在どのような立場や境遇にあろうとも、広宣流布のために貢献することは可能です。「1ミリでも広宣流布を推進するために、自分のできる何かをやろう」という一念に功徳が具わる。これが一念の因果である日蓮仏法の真骨頂というものではないでしょうか。自身の一念を観ていくのが仏法の世界であり、その上での行動が大事になります。

信心というのは、何があろうと微動だにしない自分自身を構築するためにあります。即ちそれは、八風におかされない自分であり、善いことがあろうと、悪いことがあろうと、一喜一憂しないということです。四苦八苦こそが人生の真実であり、苦しみを避けることは誰にもできません。四苦八苦が歓喜になり、功徳へと転換するだけの力が妙法にはあります。何があっても嘆かない生命力を湧現させることが題目であります。故に題目を唱えることが出来ること自体が大功徳であり、そう捉えていくことが真の信心というものではないでしょうか。

一喜一憂という面においては、内部に悪が出現することも想定内であり、一々動揺することはありません。法主が狂うという前例がありますので、この先いかなる最高幹部が狂おうとも驚くことではないのです。宗門は狂ったが、学会は大丈夫などと思っている人はさすがにいないでしょうが、いたとしたら悠長すぎるでしょう。誰もが一念三千の当体なのだから、狂う可能性が0の人はこの世には存在しません。また、敵が内部に出現することは、御書や指導を読めば明確にわかるわけですから、どう考えても想定内でしょう。しかし、人というのはまことの時に忘れてしまう生き物ですから、いざ現実に悪が出現したら、どのような態度をとるかはわかりません。治安維持法で逮捕された最高幹部が、はじめは意気揚々であったが、悉く退転していった事実を忘れてはならない。

なにが起こるかわからないのが人生であり、魔も人々の意表を突いてきます。それでこそ魔であり、悪である。悪と戦う信心があって、ようやくスタートラインであり、現実に悪に打ち勝つことは至極大変な戦いです。況や、悪と戦う信心がなければ、そのまま悪に打ち破られてしまう。これを食い止めるのが宿坊の掲示板の役割であり、悪に破られない予防策であると思います。悪と戦うには、悪を知らなければならない。そのために良質な情報の提供が有益です。もはや、一部の人が情報を独占している時代ではないでしょう。

現場の一会員が、最高幹部であろうとなんだろうと、堂々と悪事をあばき、断罪できること―これこそが理想であり、最高の民主主義である。本来は全員が一会員であり、また、会長でもあります。おかしいものをおかしいと叫ぶことで、団結が乱れることも、組織が錯乱することもありません。創価学会は仲良しクラブではなく、獅子の団体だからです。悪は放置すれば益々増長し、人々を苦しめます。いつか解決するだろうなどということはありません。故に誰かが戦わなければなりません。その誰かというのは、「自分自身」に他ならないのです。