投稿者:河内平野  投稿日:2015年 2月12日(木)11時11分57秒    通報
さて兵庫といえば「大楠公」を思い出す。

一三三六年――大聖人御入滅の約五十年後――足利尊氏は圧倒的な勢力で都(京都)へ都へと迫っていた。

正成は尊氏軍を迎え討つべく兵庫に出発する。兵力の差はあまりに歴然としていた。
真正面からあたっては勝ち目はない。

軍略の天才といわれた正成は一計を案じ、後醍醐天皇に兵庫での決戦を避け、
新田義貞の軍とともに比叡山に撤退することを進言する。

さらに正成自身も大坂の本拠地に帰って近畿一円の軍勢を集結し、
淀川の河口を塞ぎ、敵を兵糧攻めにしようと計画した。

そして疲れたところを義貞とともに南北両方から一気に攻め落とすことを提案したのである。

しかし、せっかくの作戦も天皇の側近であった貴族・藤原清忠によって拒まれてしまう。

自分は戦いもしない。
ゆえに戦いの現実も知らない。敵の力もわかっていない。
ただ嫉妬の心、人を抑えつけたいという心だけが強い。
わがままな子どもが権力を握っているようなものである。

『太平記』によると、その貴族はこう言った。
「かつて尊氏が東国の大軍を率いて攻め込んできた時でも、味方は小勢ながら勝ったではないか。
もっとも、これは武士の戦略がすぐれていたからではない。ひとえに天皇の運が天命にかなっていたからである。
ゆえに今回も難なく敵軍を滅ぼすことができるはずだ。即刻、正成は戦え、敵を迎え討て」と。

まったく現実離れした空論である。
こういう考えだから、武士の功績が目に映らないのも無理もない。

あるいは、武士の大功を認めたくないから、こういう論法を持ちだしたのか――。
どれほど尽くし貢献しても、それを当然のことと考え、一言のねぎらいも感謝もない。

自身の権威・権勢を保つためには利用するだけ利用し、
用がすめば捨てればいい――天皇のもと、栄華を極めていた当時の貴族にとって、
武士とはそれだけの存在でしかなかったのかもしれない。

自分たちを支え、懸命に働いている人々を見くだし、差別し、《もの》かなにかのように使い捨てる。

「悪」といえば、こんな「悪」も少ない。人間として最低の行為である。
いわんや、もっとも正しくあるべき宗教の世界で、そんな非道が許されるはずがない。

暴言に対して正成は、「そこまで言われるうえは、もはや異議を申し立てることはできない」と、死を覚悟して湊川の決戦に向かう。

その結果、自軍は全滅。
正成自身も自害して果てる。当然といえば当然の結末であった。

しかし、広宣流布の仏の軍だけは、絶対に敗れるわけにはいかない。
御本仏の「正法」を破壊することは絶対に許せない。

戸田先生は、「創価学会の歴史と確信」の中で、結論として次のような趣旨を語っておられる。
「ただ願わくば、賢明な僧侶があって、創価学会の同志を(楠木正成のように)湊河原で死なせることがないよう願うものである」と。

創価学会員は、仏意仏勅の広宣流布に生きる無上の使命を持つ。
いかなる立場の人間であれ、学会員を利用し、手段とするならば、厳然たる仏罰は間違いない――戸田先生はつねにそう叫ばれていた。

その叫びをわが叫びとして、私どもも敢然と進んでいきたい。
学会員をどこまでも大切にする――ゆえに学会は強い。幹部が中心なのではない。

学会員を尊重し、会員中心の行動を貫いてきたからこそ、学会はここまで発展してきたのである。
この戸田先生の精神のままに、聡明に、すべてを見極め、学会を悪に利用させてはならない。
策謀にだまされてはならない。護法の御旗を掲げ、これだけの正法興隆をもたらした歴史は仏法史上、例がない。

御本仏日蓮大聖人の御称賛を深く確信していただきたい。

【第十三回関西総会、第五回兵庫県総会、常勝の花満開総会、県・区代表幹部会 平成三年十月十六日(全集七十九巻)】