投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2015年 2月 1日(日)23時19分36秒    通報
今までの掲示板での論議は、教義を改定することそのものには誰も反対していないのではないでしょうか。

問題は方法と改定の中身です。時期の問題は方法にふくまれるでしょう。

そのことは教学部レポートにも記載があります。私は基本的にM地さんが主張する内容を指示しています。

遠藤さんが職や立場を掛けても抵抗したのも、同じ問題意識に立っているからだと理解します。

宗教の教義はいかなる宗教でも時代や社会
状況に応じた内容であるべきでしょう。
それは一般的にも学問的にも間違いないことです。

さて、では今は教義を変えていくときなのか?
幾つもの観点から論じていくことが可能ですか、教学部レポートにもある通り
最大の問題は、
池田先生にご迷惑が掛かる。
SGIが大混乱する。

この2点に集約できるわけです。
京都乃鬼様が提示されたように
教義変更は池田先生には報告はされていません。これは複数の情報で確認済みです。

また、最大の敵である矢野を追撃せよ!
私自身が矢面に立ってもよい。
師匠がそこまで言われたのです。

その師匠の命令に背いて勝てる裁判をミスして意図的に和解をした悪の4人組に教義変更を論じる資格はありません。

鬼様が言われた通り、師匠を騙してまで事を進める原田会長は、師匠の恩を仇で返す反逆者です。

そこには54年問題と同じで、師弟の精神はまったくありません。
本質は教義論争ではない。
そこを勘違いしている輩には、池田先生のお心は理解できないでしょう。

54年の正義の揮毫、池田先生はあれを、本当は師弟と書きたかったのです。

しかし、学会には既に師弟はなかった。
悔しかったから、師弟とは書けなかったのです。

我ひとり正義の旗を持つものなり。
それは、
我ひとり師弟の旗を持つものなり。

そういう意味なのです。