2015年4月3日 投稿者:正義の走者 投稿日:2015年 4月 3日(金)06時28分59秒 通報 我々は、日蓮大聖人を信じ、大聖人の御本尊を信受(受持)しているんです。書写御本尊も、大聖人の御本尊という意義において信受しているのです。 大聖人ご図顕の御本尊を信受しないとはいったい何事ですか。 謗法の山にあるということと、御本尊の正当性とは別問題です。 「いつまでも謗法の者に所有させて申し訳ありません。一刻も早く折伏、広宣流布して清浄なご安置をいたしますのでそれまでお許し下さい」というのが本当ではないですか。 大聖人ご在世に、もし、大聖人が謗法の者に囚われの身となったら、「もう信じない」などというのでしょうか。 牧口先生が謗法の国家権力に囚われの身となったからといって「もう信じない」などというのでしょうか。 御本尊の応身面ばかりにとらわれるからそういうことになる。 御本尊が報身如来の当体であることを忘れている論議です。 化儀において、誹法の山や所に参詣をなすことは、与同になるからしない、と言えばいいことです。 誹法の者が書写したり下付するご本尊は与同になるから受けません、と言えばいいことです。 また、教団の化儀を統一するにしても、認定とか非認定などと傲慢なことを言わず、 「私たちはこの御本尊をもって広宣流布を進めましょう」と言えばいいことです。 そして何よりも、学会の信仰が正しいことを実証・論証することです。 大事なのは「独自性」などではなく、信仰の「正統性」です。 Tweet