投稿者:田舎丼   投稿日:2015年 4月 2日(木)15時02分47秒     通報

先月出た『大白蓮華』4月号に、昨年11月8日に発表された「創価学会会則・教義条項の改正」についての原田会長の趣旨説明(以下、「趣旨説明」と略す)が再掲されたことでもあり、ここで改めて、趣旨説明で問題となっている数ある発言の中の最も論議を呼んでいる次の決定について確認しておきたいと思います。

趣旨説明①: 大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません。  (大白蓮華4月号p.88上段)

上の決定は様々な立場、観点から批判されてきましたが、ここでは、趣旨説明自体において齟齬をきたしている点に絞ってみたいと思います。

上の決定にある「受持」について、その前文にこう述べてあります:

趣旨説明②:
「受持」とは、「受持即観心」の法理に示される通り、南無妙法蓮華経という根本の法が具現化された御本尊を信じ、唱題することによって自身の内にある仏界が湧現するのであります。 (大白蓮華4月号p.87中段)

即ち、趣旨説明①で言う「受持」は、「受持即観心の法理」に法っており、「信じ、唱題すること」を意味する、ということです。
これは当然の事で、大聖人は『四条金吾殿御返事』(御書全集p.1136)で「受持」するとは南無妙法蓮華経を信じ念ずることであると教えられており、宗門と訣別して以降の『仏教哲学大辞典・第三版』(2000年刊)でも「受持」は「正法をよく信じ持って、いかなることがあっても違背・退転しないことをいう。」(同書p.859) としてます。
即ち「受持する」とは、よく「信受する」「信じる対象とする」ということであり、趣旨説明①の「受持の対象にはいたしません」とは「信受の対象にはいたしません」、「信じる対象にはいたしません」という意味になります。
宗門と創価学会の対立が表面化したのは、池田名誉会長が法華講総講頭を罷免になった1990年。
それ以降、従来 宗門が学会員をはじめ信徒に言い含めてきた「富士の清流700年」がデタラメだったことが明らかにされてきました。
即ち「大聖人以来 今日に至るまで大石寺の貫主(=法主)の中で大聖人・日興上人に背いた謗法の者はいない」という宗門の言い分がデタラメであったことが明らかにされてきました。
宗門にとっては、いわゆる「唯授一人の“法体の血脈”」を承けたはずの法主が謗法を犯した という事実は「あってはならない」事ですから、「富士の清流700年」の‘神話’が否定されることは致命的になります。
(宗門は今でも「法灯700年の清流」(『日蓮正宗(リーフレット)』)などと法華講に言い含めています。)
また1990年以降、宗門が「法主の指南は大聖人の御指南」等 数々の邪義を捏造していることが明らかにされてきました。
従って、1991年11月の「破門通告」=「魂の独立」の頃には、宗門が‘謗法まみれ’であることは既に学会員には明らかでした。
宗門が「破門通告」を出しても、学会員にとっては「何を今さら…」という感じで、「破門通告」のインパクトは殆んどありませんでした。
学会員は「弘安2年の御本尊」が既に大謗法の地にあることは十分に承知していました。

趣旨説明では、2002年に改定された会則に於いては、信受する対象を「弘安2年の大御本尊」とすると説明してきた、と述べています:

趣旨説明③: これまでの条文では「この会は、…一閻浮堤総与・三大秘法の大御本尊を信受し…」となっておりました。この会則は、平成14年(2002年)に改正されたものです。… この「一閻浮堤総与・三大秘法の大御本尊」については、「弘安2年(1279年)の大御本尊」を指すとの説明を行っていました。
(大白蓮華4月号p.85下段)

創価学会員は、1991年の「魂の独立」の以前も以後も一貫して「弘安2年の御本尊」を信受(=受持)してきましたが、2002年の会則改定以降も2002年の会則の説明に則って改めて、大謗法の地にある「弘安2年の御本尊」を信受してきたわけです。
日寛上人の「戒壇の本尊を書写してこれを掛け奉る処の山々、寺々、家々は皆これ道理の戒壇なり」(報恩抄文段)という仰せに則り、信受の対象である「弘安2年の御本尊」を書写した日寛上人、日昇、日達などの歴代法主の御本尊の写し(御形木御本尊)を信受することで、大謗法の地にある「弘安2年の御本尊」を信受してきたわけです。

その結果、「学会員は皆」「絶大な功徳を受け」てきた、と趣旨説明は認めています:

趣旨説明④: 魂の独立以来、学会員は皆、大石寺に登山することもなく、弘安2年の御本尊を拝することもなかったわけであり、各人の御本尊に自行化他にわたる題目を唱えて絶大な功徳を受け、宿命転換と人間革命を成就し、世界広布の拡大の実証を示してきたのです。 (大白蓮華4月号p.87下段~88上段)

信じる対象が間違っていて功徳を受けることはあり得ないはずです。
「絶大な功徳を受け」てきたのは、信じる対象が正しかった事の証明となりますから、2002年の会則説明に則って信受してきた「弘安2年の御本尊」が正しい信じる対象、正しい信受=受持の対象であったことを趣旨説明③と④は認めていることになります。

趣旨説明③と④に依れば、趣旨説明①は「絶大な功徳を受け」る事ができる正しい受持の対象を「受持しない」としてしまった決定に他なりません。
執行部が、大謗法の地にある「弘安2年の御本尊」を受持の対象にしない、と決定した理由として考えられるのは、一つには:

(i) 「弘安2年の御本尊」を拝さなくても、各人の御本尊を拝せば功徳を受けることができたのだから、「弘安2年の御本尊」を信受(=受持)する必要は無い。

というものです。
しかし趣旨説明③と④にもとづけば、学会員は皆、「弘安2年の御本尊」を信受しないで「絶大な功徳を受け」てきたのではなく、2002年の会則に則って「弘安2年の御本尊」を信受してきた結果 学会員は「絶大な功徳を受け」てきた事になります。

また、もう一つには:

(ii) 「弘安2年の御本尊」は「本門の本尊」ではあるが、大謗法の地にあるから受持することはできない。

即ち、「弘安2年の御本尊」が「大謗法の地にある」事を、「受持しない」事の理由にするわけです。

学会員は、「魂の独立」以前も以後も、2002年の会則改定以前も以後も、一貫して「弘安2年の御本尊」を信受(=受持)の対象としてきました。
もし、宗門が学会と対立し‘謗法まみれ’になった1990年頃から学会員が功徳を受けることが無くなった、というのであれば、「大謗法の地にある」という事が、「弘安2年の御本尊」を「受持しない」事の理由になるかもしれません。
しかし、たとえ「弘安2年の御本尊」が大謗法の地にあったとしても、2002年の会則に則って「弘安2年の御本尊」を受持の対象としてきた結果、「絶大な功徳を受け」た事を趣旨説明③と④は認めています。
つまり趣旨説明③と④が認めている所に依れば、「大謗法の地にある」事は「弘安2年の御本尊」を「受持しない」事の理由にはなりません。
以上の様に、趣旨説明の言い分に従っていけば趣旨説明①が趣旨説明自体の中で齟齬をきたす決定であることは明らかです。

趣旨説明①の決定を提唱・容認した原田会長、秋谷最高会議議長をはじめとする執行部は全員、速に趣旨説明①を公式に撤回し、創価学会内外に謝罪するべきです。
そして、昨年11月の「教義条項改正」が引きがねとなって全国の創価学会員が晒されている宗門や顕正会からの攻撃に対して、「教義条項改正」を提唱・容認した執行部全員一人一人が責任を持って反撃していくべきです。
既に11・8「教義条項改正」が発端となって海外SGIメンバーに対する宗門の切り崩しも始まっているのです:
→ News: The Soka Gakkai Denies the Dai-Gohonzon of the High Sanctuary (PDF)
http://nstmyosenji.org/new-members/leaving-soka-gakkai-and-returning-to-nichiren-shoshu
(*それとは別に、日寛教学の再検討については、学会員の間でも意見が分かれる所であり、日本のみならず世界各国のSGIメンバーとも意見交換を重ねながら、慎重の上にも慎重に議論を尽くして、万代に禍根を残さないようにするべきである事は云うまでもありません。)