投稿者:河内平野  投稿日:2014年11月23日(日)09時55分59秒    通報
――皮肉屋で有名な、ここイギリスの小説家バーナード・ショー。
彼に、こんなエピソードがある。
ある婦人が、一冊の書名をあげたところ、ショーは読んでいなかった。
婦人は得意気に言った。
「ショーさん、この本は、もう五年間もベストセラーですよ。それなのに、ご存じないとは!」
ショーは穏やかに答えた。
「奥さま、ダンテの『神曲』は、五百年以上もの間、世界のベストセラーですよ。お読みになりましたか?」

ショーの面目躍如というところだが、イギリスでさえ『神曲』は「読まれていない本」の代表なのかもしれない。
しかし、この一書は「ヨーロッパ文学の精髄」であり、「ダンテを知る者は文学の秘鑰(秘蔵を開けるカギ)を握る」とされる《人類の永遠の宝》である。

その核心部分だけでも、若き日にふれることは有益であろう。
ただ全部は難解であるし、必ずしも読む必要はないと思う。

それよりも当然、大切なのは御書である。
日蓮大聖人の御書を深く、また深く拝していただきたい。
若き日に教学を学びぬいた人は強い。生涯の無限の宝となる。

ただ、きょうはヨーロッパのメンバーにとって、背景がわかりやすいため、
『神曲』をとおして、普遍的な人間の生き方を語っておきたい。

記憶によったので、また時間もかぎられているため、表面的かもしれないが、ポイントをいくつか述べておきたい。
『神曲』の題名は本来、「コメディア」すなわち、たんなる「喜劇」「喜曲(喜劇詩)」である。

「聖なる喜劇」の「聖なる」とは、敬称として後の人がつけた。
「喜劇」といっても、現代風の「滑稽な劇」の意味ではない。
最後がハッピーエンドなら喜劇。
最後が苦悩で終われば悲劇。そういう約束ごとがあった。

ちなみに後のバルザックは、自作を「神聖でない喜劇」すなわち「人間喜劇」と名づけている。
『神曲』の構成は、第一部「地獄編」から、第二部「浄罪界(煉獄)編」へ、そして第三部「天堂(天国)編」へ、しだいに《闇》から《光》へと移る。
そして最後に、ダンテは「宇宙の根源」「至高の存在」に出会い、融け合う。

仏法の立場から見れば、「宇宙即我」に通じる大境涯を、彼は《生命の目的》としたといえよう。
このように大ハッピーエンドであるゆえに「喜劇」なのである。

人生も最後が幸福なら「喜びの劇」、途中よくても最後が不幸なら「悲劇」となる。
こうした『神曲』の三部構成それ自体が「闇をくぐりて光へと向かえ!」
「悲しみの街(地獄)を超えて歓喜へといたれ!」
「この世は、煩悩をとおして菩提に向かう旅である」とのメッセージを力強く告げているようでもある。

それは、またダンテ自身の《魂の旅》であった。
その体験と境涯を万人に伝えんとした書――それが「聖なる喜劇」(神曲)である。

【イギリス青年部総会 平成三年六月二十九日(全集七十七巻)】