投稿者:河内平野  投稿日:2014年11月21日(金)09時56分36秒

 

 
人々が「活字」(文字)を、ことさらに尊敬し信用するのは、昔からのことかもしれない。
しかし、透徹した教養の人は、「書かれたもの」以上に「事実」と「生活」を大事にする。

十九世紀初頭の、ドイツの著名な著作家フリードリヒ・シュレーゲルの妻も、その一人だった。
彼女は学識もあり、文章もうまく、才色兼備の婦人。

しかし、夫の死後は、つつましい生活を続け、シャツ縫いの内職をしながら、子どもたちを育てていた。

ある知人が言った。
「あなたのように学問のある婦人が、他人のシャツなど縫っておられるとは!
それより筆をとって、著述をされたらどうですか。きっと世の中に迎えられますよ」

華やかな生活になるでしょう――と。しかし、彼女は静かに微笑して言った。

「世の中には『無用の書物』がおびただしくあります。
しかし『無用のシャツ』があるとはまだ聞いたことがありません。
私などが何を書きましても、無用の書物が一冊増えるだけです。それよりも、さあ、シャツを縫いましょう」

こう言って、針を取り、また縫いものを続けた――。
決して、書物が悪いというのではない。
ただ、「私の縫いもののほうが世の中の役に立っている」と信じる彼女の心意気がすがすがしい。

「本を書いている」
「文が活字になっている」
――それだけで、傲慢になり、縫いもののような仕事を見くだす人がいる。

自分が社会の人々より一段上に立っているような、大いなる錯覚をもつのであろうか。
また世の中も、そうした華やかな仕事をうらやむ傾向がある。
書いた中身こそが、それだけが問題であるのに――。

しかし、彼女は、くだらぬ活字をはるかに見おろしていた。
「――それよりもシャツを縫いましょう」。
言い方は穏やかだが、その信念と気迫は激しかった。

いわんや、広宣流布に通じる私どもの、すべての地味な活動は、世のどんな権威より、有名人より尊い。

仏法では、一切に本迹、わかりやすくいえば、「実体(本)」と「その影(迹)」の立て分けをつけることを教える。
その意味で、「書かれたこと」等は「迹」である。
「事実」「生活」「人間」こそが「本」といえる。

私どもは、この「本」に即し、事実のうえで、どこまで人類に貢献できたかをみずからに問いながら進んでいけばよいのである。
「迹」にとらわれれば、その人生も《迹門の人生》となる。

尊き使命の仏子を見くだす人は、すでにそれだけで見くだされるべき人間になっているのである。
仏子を心から尊敬できる人こそ、真の仏子なのである。

権威にだまされてはならない。
大切なのは人格である。
道理である。現実の生活である。

個人の尊厳――その実現のために仏法者は戦う。
この道は《人類の進歩》のメーンストリートである。
私どもはその先駆者である。

「差別なき世界」をつくろうとする民衆を、差別意識をもった人々が敵視し、
妨害しようとするのは、むしろ当然であろう。

そうした反人権、反仏法の人々から圧迫されることは、むしろ誉れである。
大聖人がたどられた道だからである。

真実は、やがて大聖人が厳然と裁かれ、私どもの正義は証明されることを確信する。

【イギリス最高協議会 平成三年六月二十三日(全集七十七巻)】