投稿者:河内平野  投稿日:2014年11月19日(水)10時27分22秒    通報
学会の草創期、人数の少ないことを嘆く友に、牧口先生は、次の御書を拝して指導し、励まされた。

それは「聖愚問答抄」の一節である。
「先ず汝権教・権宗の人は多く此の宗の人は少し何ぞ多を捨て少に付くと云う事必ず多きが尊くして少なきが卑きにあらず、賢善の人は希に愚悪の者は多し麒麟・鸞鳳は禽獣の奇秀なり然れども是は甚だ少し牛羊・烏鴿は畜鳥の拙卑なりされども是は転多し、必ず多きがたつとくして少きがいやしくば麒麟をすてて牛羊をとり鸞鳳を閣いて烏鴿をとるべきか、摩尼・金剛は金石の霊異なり、此の宝は乏しく瓦礫・土石は徒物の至り是は又巨多なり、汝が言の如くならば玉なんどをば捨てて瓦礫を用ゆべきかはかなし・はかなし」(御書四九三頁)

――あなた(愚者)が前に、権教・権宗の人は多いがこの宗(法華経を信ずる人)は少ない。
どうして、多数を捨てて少数につくのか、と質問したことに答えましょう。

必ずしも、数が多いから尊くて、少ないから卑しいのではありません。
賢善(賢く善い)の人はまれで愚悪(愚かで悪い)の者は多い。
麒麟や鸞鳳(ともに中国の伝説上の動物)は鳥や獣の中で珍しくすぐれたものとされる。

しかし、これはきわめて少ない。
それに比べ牛や羊、カラスやハトは動物、鳥の中で劣ったものであるが、これは、非常に数が多い。
必ず多数が尊く、少数が卑しいならばすばらしい存在のキリンを捨てて牛や羊をとり、鸞鳳をさしおいて、カラスやハトをとるべきであろうか。

マニ(サンスクリット語で宝珠)や金剛(ダイヤモンド)は、金属や石の中で霊宝であるが、この宝は乏しい。
瓦礫や土石は無用の究極であるが、これは限りなく多い。
あなたの言うとおりならば、宝の玉をすてて瓦礫をとるべきであろうか。まことにはかないことである――。

「聖君は希にして千年に一たび出で賢佐は五百年に一たび顕る摩尼は空しく名のみ聞く麟鳳誰か実を見たるや世間出世・善き者は乏しく悪き者は多き事眼前なり、然れば何ぞ強ちに少きをおろかにして多きを詮とするや土沙は多けれども米穀は希なり木皮は充満すれども布絹は些少なり、汝只正理を以て前とすべし別して人の多きを以て本とすることなかれ」(同頁)

――聖人・君子はまれであり、先年に一度、出現する。
補佐役の賢臣は五百年に一度あらわれる。
マニ(宝珠)はむなしくその名を聞くのみであり、麒麟や鸞鳳もだれが実際に見たであろうか。

世間、出世間(仏法の世界)ともに、善人は少なく悪人が多いことは眼前の事実である。
したがってどうして、いちがいに数が少ないからといって卑しみ、多いからといって重要とするのか。
土砂は多いけれども米穀はまれである。
木の皮は充満しているけれども布絹はわずかである。
あなたはただ正理を第一とすべきであり、ことに人数の多いことを根本としてはなりません――と。

この仰せのとおり、学会は正しき道理を第一として、大聖人の仏法を、世界に弘めた。
この歴史は、あまりにも尊い。

【第一回ベネルクス三国最高会議 平成三年六月十日(全集七十七巻)】