投稿者:河内平野  投稿日:2014年11月15日(土)16時03分56秒
日本の軍国主義が招いた言語に絶する非道――。
日本人はあまりにも、こうした歴史に無自覚である。
過去の過ちを厳粛に心に刻み、真心をもって各国との友情の懸け橋を築いていかねばならない。

彼女は中学、高校、大学とアメリカに留学する。
とくに大学は全米でも一、二を争う名門女子大のマウント・セント・ビンセント大学に通った。
この留学時代、マニラに帰省した彼女は、幼なじみのアキノ氏と再会する。

ベニグノ・アキノ氏(愛称ニノイ)は、一九三二年の生まれで、彼女とは一つ違い。
彼の実家も名門ではあったが、実際には経済的に恵まれず、
靴磨きや鉄工所でのアルバイトをしながら学業に励み、
十七歳の時、志願して朝鮮戦争従軍記者となり、そのリポートで名声を得る。
彼女は、こうした彼の知性とバイタリティーにひかれ、一九五四年、結婚にいたる。

結婚後、アキノ氏は政界入りする。
二十八歳で生地であるタルラック州の知事、三十四歳で上院議員、
三十八歳で大統領選の最有力候補にと、いずれも最年少の若さで政治の頂点へ上りつめる。

この間、コリー夫人は、政治家の妻としては、努めてひかえめに振る舞った。
夫が壇上に登っている時でも、彼女の姿はつねに聴衆のいちばん後ろにあった。

また、裕福な出であったにもかかわらず、彼女は地味で質素な暮らしを心がけた。
私との会見の部屋も落ち着いた小さめの部屋であった。
訪問客との会見を、いつもこうした部屋で行うのは大統領の意向であるという。

《質素は美徳》――彼女のモットーは、大統領となった今も変わらずに生きている。
自分ばかりでなく、一男四女の子どもたちに対しても、お金の使い方は厳しかった。

浪費のくせをつけないように、子どもたち一人一人に、銀行口座を作って、自分のお金を管理させるようにした。

また、彼女は、幼い子どもであっても世の中の問題は知っておくべきであると考え、進んで国際情勢を語った。
さらに、祖国愛を育むため、家庭内では子どもたちとタガログ語(フィリピンの現地語)で会話した。

多忙であったアキノ氏も、食後の家族との団欒だけは大切にした。

それが、家族との唯一のコミュニケーションの場であったからだ。

【第四十一回本部幹部会 平成三年四月二十五日(全集七十七巻)】