投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 3月30日(月)08時12分11秒     通報

信心がなければ、御本尊は紙きれである。紙に文字が認められている物体に過ぎないが、信心の眼で見れば、厳然と仏の生命が顕されている。大御本尊であろうと、書写本尊であろうと、信心があれば同じ功徳があり差別はない。日蓮大聖人が認めようと、歴代法主が認めようと、理論的には同じである。もっというならば、信心なきものが、そっくりそのまま書写したとしても御本尊足り得るでしょう。

では、自分が書写した御本尊を拝むことができるだろうか。私にはできない。同じ功徳があったとしてもそれは無理である。日興上人の正統な流れを汲む法主の御本尊を拝む対象とする。なぜならば、それが信心であるからだ。

信心があれば、同じ御本尊であろうと、根源の師である日蓮大聖人の認めた御本尊と、法主の認めた御本尊を同じと考え、軽く扱うようなことはしない。師をおろそかにする弟子などいない。そういう意味で、大御本尊と書写本尊を区別することも信心なのである。同じなのだけど同じとみない、それが心の世界であり、信心である。

創価学会は、法主が狂おうと、大御本尊への信はいささかも変わらないという方針できたが、ここにきて方針を転換しました。信心の狂った宗門にある大御本尊は受持の対象にしないと。環境がどうであろうと、大御本尊を尊重してきた姿勢から、環境が駄目だから、大御本尊自体も捨て去る方針をとったわけです。

大御本尊であろうと、書写本尊であろうと、信心が無ければ無意味である。大御本尊を電源ととらえ、書写本尊を端子ととらえるのもまた信心であり、信心で御本尊を拝さなければ、すべて同じにみえるでしょう。だからこそ創価学会は日寛教学を尊重し、大事にしてきたのでしょう。何事も信心の眼でみなければわからない。

教義変更により、御本尊はすべて同じであるという教義になりましたが、果たしてここに信心があるのか否か。ここでいう信心とは「正しい信心」を指します。いかなる団体も問われるのは、正しい信心があるかどうかであり、たとえ本尊が正しくても、題目が正しくても、それで事足りることはない。肝心要の信心が狂っていたのなら、すべてが台無しとなる。

創価学会が仏意仏勅である根拠は、正しい信心があるからであり、では、正しい信心とは一体何か。これが本質部分であり肝でしょう。それは、正しい信心を教えてくれる指導者の指導の下、広宣流布を推進していくことが、正しい信心であると思います。それが三代の会長であり、だからこそ永遠の指導者なのでしょう。三代会長の指導から逸脱した行為の中に、正しい信心は存在しない。そのように考えることが、過ちを犯さない道であり、生き方でありましょう。

教義変更は果たして池田先生の方針に沿ったものだったのか。どこかでズレがあったのではないかという疑惑。背景に師敵対の人間がいるのかいないのか。学会から正しい信心がなくなれば、宗門と同じである。「正しい信心を失ってほしくない」、ただそれだけが大事であり、それこそがすべてなのである。