投稿者:河内平野  投稿日:2014年11月 6日(木)11時10分12秒
大聖人は、時光に、こう仰せである。
「千丁・万丁しる人もわづかの事にたちまちに命をすて所領をめさるる人もあり」

――千町・万町という広大な土地を治める人でも、わずかの事(つまらない事)で、たちまちに命を捨て、その所領を取り上げられてしまう人もいる――。

現代も、こうした人生模様は、さまざまに見られる。
新聞などで報じられる出来事を見ても、思わぬことで一生を棒にふったり、これまでの功績を無にしたり、生命を失ったりすることは枚挙に暇がない。

そして、「今度法華経のために命をすつる事ならば・なにはをしかるべき、薬王菩薩は身を千二百歳が間・やきつくして仏になり給い・檀王は千歳が間・身をゆかとなして今の釈迦仏といはれさせ給うぞかし」と。

――それを思えば、このたび、法華経のために命を捨てるということならば、何が惜しいことがあろう。薬王菩薩は身体を千二百歳(年)の間、焼きつくして仏になられ、須頭檀王(釈尊が過去世において因位「仏果を得るための修行の位」にあって修行していたときの名前。千年の間、師の阿私仙人のために、水をくみ、薪を拾い、身を床として仕えたと説かれている)は、千歳の間、身を床として師に仕えた功徳で、今の釈迦仏といわれるようになられたのである――と。

人生、何に生きるか、である。
人それぞれに人生があり、生き方がある。
自分の置かれた立場で、みずからの使命を自覚し、自分自身に生ききることである。

ただ言えることは、ある一つの世界で、たとえ頂点に立つ人になったとしても、それだけでは、その世界の範疇の人生を超えることはできない。

しかも、三世という次元から見れば、どんなに栄華を極め、どんなに財産を築き、社会的地位を得ても、それらは決して永遠ではない。

無常を免れることはできない。
しかし、妙法は永遠である。
ゆえに妙法に生きる人は永遠となる。

妙法は広大無辺である。
ゆえに妙法に生きる人は、まさに宇宙即我の広大無辺の境涯に生きることができる。

広宣流布は全人類のための戦いである。
ゆえに広布に生きる人は、全世界と全人類へと開かれた人生を生きることができる。
また、広宣流布は永遠不滅の聖業である。
ゆえに広布に生きる人は、永遠不朽の光彩を輝かしていく人生となる。

 

第四回全国男子部幹部会 平成三年二月十七日(全集七十六巻)】