究極の人生道。 投稿者:河内平野  投稿日:2014年10月 1日(水)10時21分49秒    通報
法華経に「是の経典を受持せん者を見ては、当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」(開結六七二頁)という、有名な言葉がある。

戸田先生は、よく言われていた。
「これからは青年の時代だ。青年を、仏様を迎えるようにして大事にし、何でも語り合い、自分の思っていることをすべて伝えて、バトンを受け継いでもらう以外にない」
今、私も、まったく同じ気持ちであることをお伝えしたい。

私は十九歳で入信して以来、四十四年間、信念と正義のままに、まっすぐに広布の道を歩みぬいてきた。
入信した当初、私はどうしても当時の学会が好きになれなかった。
先輩たちの姿に納得できないところがあった。
その心を知られて戸田先生は言われた。
「それならば、大作、お前が本当に好きになれる学会をつくればいいではないか。うんと苦労し、真剣に戦って、お前の力で理想的な学会をつくれ!」

本当に明快な答えであった。大きな心の先生であった。
私はこの言葉どおりに、新しき学会を建設し続けてきた。
私はこの恩師の言葉を、そのまま皆さんに贈りたい。

また私は、「なぜ、不惜身命で信心をしなければならないのでしょうか」と質問した。

戸田先生は、こうおっしゃった。
「この地球上で、軍人は人を殺し合う。経済は弱肉強食の世界で、人を幸福にするとはかぎらない。医者や弁護士、役人は本来は人を救う立場だが、反対に人を見くだし、利用している輩も多い。その他、政治、科学、教育、宗教――とにかく人間の業というか、社会は複雑で、すべてが矛盾だらけである。どこにも万人の幸福への根本的な道はない。
そのなかで、日蓮大聖人の仏法だけは、人間の根本的な宿命転換の方途を示されている。常楽我浄と、永遠の所願満足への軌道を教えてくださっている。これ以上の究極の人生の道はない。だから信心だけは命をかけてやって悔いがないのだ」と。

私は納得した。納得したがゆえに、身を惜しまず私は進んだ。それが青年である。

また、こんな質問もした。
「宗教はたくさんあるのに、なぜ大聖人の仏法が一番正しいと言えるのでしょうか。独断的ではないでしょうか」と。

戸田先生は「青年として当然の質問だろう」と喜ばれた。その答えも明快だった。
「世界の多くの宗教、哲学は、生命の一部分だけを説いている。人間の体に譬えれば、あるいは腕だけ、足や耳や目、胴体だけというように部分的に説いてはいる。これに対して、総合的、全体的に生命の実相を説き明かされているのが大聖人の仏法である。ゆえに、最も優れているし、妙法を根本にすれば、他の一切の善論を生かすこともできる」と。

また「どんな人間であっても、『生老病死』の四苦を避けることはできない。これを唯一、解決できる妙法である」と。

ヴィクトル・ユゴーが「人間はみんな、いつ刑が執行されるかわからない、猶予づきの死刑囚なのだ」と喝破したように、人間にとって生死という根本の大問題を解決せずして、真の幸福もない。
ゆえに「正法」の「広宣流布」が必要なのである。
恩師との思い出は数限りない。私の「宝」である。
私もまた諸君に語り、すべて伝えるべきことは伝えきっておきたい。
諸君の力で、諸君の団結で、将来はSGI(創価学会インターナショナル)の中心地になるであろうアメリカを、名実ともに「世界一」へと建設してほしい。
じっくりと、あせらず二十一世紀を目指して、一緒にやりましょう!
私も何度も、できれば長期間、訪れ、全力で応援する決意である。

【第一回アメリカ青年研修会 平成三年十月一日(大作全集七十八巻)】