投稿者:ジョーカー 投稿日:2018年11月14日(水)07時57分41秒   通報
池田大作全集69巻 P214より

「民衆ほど大切なものはない。民衆の大地から離れて栄えつづけたものもない。仏教も本来、民衆の幸福のために、民衆のなかで説かれ、広がった。しかし釈尊入滅後、仏教はしだいに民衆救済の精神から遠ざかっていった。それはいったいなぜか。
その一つの表れとして、『解釈学の先行』をあげる研究者がいる。
釈尊自身は、その悟りをたくみな譬喩等を使って、やさしく説いた。また卓越した慈悲の人格によって、人々を教化した。ゆえに、難解な仏教の法理を理解できない人々も、釈尊の、時に応じ、人に応じ、所に応じた『自在な説得力』と、『偉大な人間性』によって、仏教に帰依することができた。
しかし、釈尊入滅後、仏教教団は、仏説の解釈や教理について、煩雑な議論を繰り返し、見解の相違から多くの部派に分裂していった。いわゆる『部派仏教』の時代である。
そうしたなか、実践者として『民衆のなかへ入り』『民衆の苦を救う』という釈尊の真意から、遠くかけ離れたものになっていった。」

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仏法は現実である。現実に、悩みや問題は解決したか。幸福になったか否か。自分自身を含め、苦から救われたかどうかである。この根本ありきの上での議論が大事になる。仏道修行も、信行学の順番が大事であるように、何が要であるかを見失ってはならない。行の前に信がなければ意味はなく、学の前には行がなければ、机上の空論となる。

だからといって、要さえあればいいというのは極論になる。信心がおかしくなるという理由で、議論することをさも、「わるいこと」とし、敬遠するのは問題である。議論なくして、悪を見破ることは難しい。逆に悪にとっては、議論などしてほしくないのだ。民衆を救いながら、大いに議論する。これが、王道というものだ。