投稿者:まなこ 投稿日:2017年 8月 8日(火)09時35分20秒   通報
3 代理戦争とアジア

【池田】 ベトナム戦争は、一応、代理戦争という悲劇に終止符を打つことができましたが、その後もカンボジアを舞台にして戦火は続いています。さらに、世界の各地をみますと、米ソ、米中、あるいは中ソという超大国の勢力が対峙している地域において、中小国は、程度の差はいろいろあるにせよ、何らかの脅威をたえず受けている状況です。
今後、ベトナムのような悲劇が起こる可能性は考えられるかどうか、また、中小国がそうした悲劇に巻き込まれないために、最も注意しなければならない点はどういうことか――こういった点について、博士のお考えを伺いたいと思います。

【トインビー】 不幸なことですが、中小国はどんなに用心していても、その意志に反して、その種の戦争へと巻き込まれやすいのです。たとえば、カンボジアは、非常に平和的な国民性をもつ非軍事的小国ですが、アメリカの東南アジア政策の犠牲となってしまいました。
かつてアメリカは、南北ベトナムは断固として統一されるべきでないと決定しました。北ベトナムはアメリカのこの決定に挑戦し、軍事行動を起こすことにしたわけですが、そのためには、彼らはカンポジアを通過するホー・チ・ミン・ルートに沿って行動を展開する以外にありませんでした。カンボジア民族は弱小です。ここでもしカンボジアがことの成り行きを阻止しようとしたら、北ベトナム軍によって全土が戦場化されてしまったことでしょう。このためシアヌークは、北ベトナム軍の行動を許すほかに道がなかったのです。
その後、ニクソン大統領はカンボジアヘと戦火を拡大しましたが、これは大変な誤りでした。この結果、内戦が、このかつては平和であった民族に吹き荒れ、国土を破壊しています。ここで最も悲劇的なことは、何といってもカンボジア国民に力がなく、また責められるべき非もないということです。
その他の東南アジア諸国も、同じくベトナム戦争に巻き込まれています。タイは、日本と同じく、かつて植民地支配を受けたことのない独立国ですが、アメリカから空軍基地を国内に建設するよう圧力をかけられたとき、どうしてもこれを拒否することができませんでした。こうして、タイもやはり、その意志に反して戦争に巻き込まれたわけです。
同じ中小国であるオーストラリアとニュージーランドは、かつてのシンガポール陥落から、イギリスにはもはや保護力のないことをみてとり、アメリカに頼ることにしました。なぜなら、この二国は、確証あるものではないにせよ、きわめて現実的な脅威を東アジアに感じていたからです。ところがアメリカはその後、この二国を、その意志に反して、無理やりベトナム戦争に参戦させたのです。

【池田】 力のみが国際関係における意思表示の手段となっている世界の現状を考えれば、なるほど何らかの形で紛争に巻き込まれることは避けがたいとみるべきかもしれません。しかし、カンボジアの場合も、オーストラリアやニュージーランドの場合も、そこにもう一つ選択の道がなかったかと思われてなりません。
それは、ベトナム戦争に関して、自国は中立と不関与を守ると言明し、カンボジアの場合でいえば、自分の国土を南北ベトナムのいずれにも使用させないこと、タイの場合でいえば、軍事基地として使用することを許さないこと、オーストラリアやニュージーランドの場合は出兵を拒否すること――を厳守するという行き方です。もちろん、そのためには、カンボジアは北ベトナムや中国、ソ連に対して、タイ、オーストラリア、ニュージーランドはアメリカに対して、それぞれ気まずいことになったかもしれません。しかし、こうした態度から、さらに相互防衛あるいは集団安全保障という、現代世界における武力を中心とした国家間の提携、協力関係のあり方そのものまでが問い直されることも、考えられるわけです。
それは厄介で大きな問題ですが、少なくとも、今後戦争の火が一国から一国へと、次々に広がって大戦争にまで発展するのを防止するためには、そうした新しい倫理が打ち立てられる必要があると私は考えます。相互防衛、集団安全保障という考え方は、侵略主義の脅威に対して、防衛的な価値をもつものとして生まれたものでした。しかし、現実には何らの効果も発揮できなかったばかりか、むしろ、二度にわたる世界大戦を生んだのも、じつはほかならぬ、この相互防衛ないし集団安全保障という倫理でもあったということが、結果的にいえるわけです。まして当時に比べ、現在は核兵器の登場によって、戦争そのものの質が変わってしまっております。極端にいえば、現在では正義を守る戦争さえありえない、つまり、戦争そのものによって正義も滅び去ってしまうと思います。
ともあれ、カンボジア、タイ、オーストラリア、ニュージーランドの例は、その国際的なつながりから、やむなく戦争に巻き込まれてしまった場合です。したがって、これを防止するためには、国際倫理そのものについての基本原理が変革されなければならないと思うのです。それも、一国一国がバラバラであってはとうていむずかしいでしょうから、これらの国が集まって協議し、そのとるべき姿勢を決定することが必要でしょう。そうなれば、これら中小国を巻き込もうとする大国も、たやすく手が出せないばかりか、戦争そのものを諦めざるをえなくなるでしょう。