投稿者:まなこ 投稿日:2017年 7月13日(木)22時30分5秒   通報
【トインビー】 私は、あらゆる国々で、死刑が廃止されるよう望みます。それには、二つの説得力ある理由があります。
その第一は、どんな人間にも他人の生命を奪う権利は、道義上まったくないということです。
おっしゃる通り、死刑廃止は、同時に戦争の放棄を必要とします。一方では、ある人間が他人や人間社会に対して何らかの重罪、たとえば殺人を犯した場合、このたった一人の人間を、できるかぎり非人道性の少ない方法で死刑に処すことさえ私たちの権限にないとしておきながら、他方、戦争にあっては、最も残酷で最も野蛮な手段をもって、無数の人間を殺傷することが正当視されるというのでは、それこそ非論理的な話です。しかも兵士たちは、個人的には何の私怨ももたないいわゆる敵兵を、命を賭しても殺すよう強制されるまでは、かつて人間同胞に何の罪を犯したこともなかったのです。戦争は、人々を殺すだけでなく、人間を無理やり殺人者に仕立てあげます。そして、この二つの罪悪を、個人の次元だけでなく、集団的に犯させるのです。
死刑と戦争を廃止すべき、第二の説得力ある理由とは、一度殺してしまった生命は、再び元へ戻すことができないということです。たとえその人が度重なる重罪を犯した人であっても、生命あるかぎりは、道徳的に更生する可能性があるものです。
【池田】 死刑廃止には、それと同時に戦争放棄が必要だという点で、私たちの意見はすでに一致しています。この戦争放棄ということに含まれますが、とくに私が主張したいのは、核兵器を使用することだけは断じて許されないという点です。もし死刑が許されるものとするならば、戦争を起こし、核兵器を使用する魔性の人こそ、死刑に処せられるべきでしょう。といっても、私が死刑を認めるというのでないことは、よくおわかりいただけると思います。私は、人々が、核兵器による大量殺人という、最大の罪悪を抹消すべき強い姿勢に立ち、その根を断ち切るべきだといいたいのです。
私は、現在、死刑廃止の方向が各国で模索されているのは、非常によい傾向だと思っています。しかし、もう一歩、死刑に値するような犯罪を生まない社会を築いていく努力が、続けられなくてはなりません。そのためには、どうすれば今日の生命軽視の風潮が抜本的に改められるかを、考えることが先決でしょう。
ただ、現実の問題としては、いわゆる凶悪犯に対していかなる姿勢で臨むかということも、考えなければなりません。これについては、私は、どんな犯罪者に対しても、忍耐強くその良心を呼び覚ましていく努力が必要だと思います。この努力をせずに、国家が凶悪犯を死刑に処すならば、国家自体が殺人を行なっていることになりましょう。どうしても社会的制裁が必要な場合でも、死刑以外の手段が講じられるべきだと考えます。
【トインビー】 ある国で死刑が廃止されたからといって、では、有罪と決まった犯人にも十分な個人的自由が与えられてよいかというと、決してそんなことはありません。何の罪科もない一般市民が道義的・法的な権利としてもっていると同じだけの自由が、犯罪者に与えられてよいはずはないのです。殺人犯にも生き続ける権利があるというのであれば、同じく無事の隣人たちには、殺人犯によって殺される危険から保護される権利がある、といわなければなりません。したがって、殺人犯として服役中の者は、釈放しても他の人間に害を加える恐れが、もはやまったくないと思われるまでは、刑期を解くべきではありません。ただし、この場合、あくまでもその恐れがないと思われる、ということであって、そこに確実性はないわけです。
犯罪者を刑に服させることの目的は、報復をめざすものであってはなりません。むしろ、どこまでも犯罪の予防をその目的とすべきであり、さらにこの消極的な目的を超えて、積極的に教育し、更生させることをめざすべきです。刑務所は、できうるかぎり、犯罪者に自力更生の道を教える、学校のような存在にすべきです。しかし、これは、はたしてどこまで可能なものでしょうか。教育の効果は、自発性の度合いに比例するものです。他の人間関係と同様、教育にあっても、強制は抵抗を生みがちです。刑務所という名の学校も、やはり客観的にみて、また服役者自身の意識からいって、強制が最大限行なわれ、強制がもたらす怒りが極限に達している学校なのです。

【池田】 あらゆる刑は報復的なものでなく、予防を目的とするものでなければならないとする博士の御意見に、私も賛成です。また、服役者の教育は強制をともなうゆえに、効果を生むことはむずかしいという御指摘も、まことにその通りであると思います。この囚人教育がもっている限界を乗り越える唯一の道は、教育者の並々ならぬ情熱と慈愛であり、そこから、服役者との間に真に人間的な心のつながりをつちかうことではないでしょうか。
ともあれ、死刑の廃止、死刑を必要としない社会を実現させるには、仏教で説く“慈悲”の精神がすべての人々に行きわたり、確立されることが望まれます。それによって初めて、人間が真の意味での生命の重みを認識し、生命の尊厳に目覚めることができると信ずるからです。