投稿者:まなこ 投稿日:2017年 6月27日(火)23時11分17秒   通報
◆ 3 組織と価値観

【池田】 現代文明を考えるとき、どうしても根本的に認識しなければならないこととして、組織に関する問題があります。組織は、技術や情報とともに、現代文明を支えている重要な柱であり、それが人間に与えている恩恵は測り知れないものがあります。しかしまたその反面、人間にとって重大な脅威となるものだということも事実です。
つまり、人間がつくり出したはずの組織なり社会というものが――もちろん人間の意志を反映してはいくのですが――そのメカニズムによって、人間にとってはまことに望ましくない方向に機能していくという側面があることです。私は、この組織、社会の自律的運動が、人間性を著しく抑圧し、歪めているところに現代の悲劇があると思います。

【トインビー】 たしかに、組織というものは、往々にして、その創設者の考えとは別の結果を生みだします。これはあたかも組織がそれ自体の意志をもち始め、その成員がめざすものとは別の目的を勝手に設定していくかのような印象を与えるものです。しかし、私の想像では、事の真相は、組織そのものが自律的な人格的存在になるのではなく、むしろその組織の支配者たちが、自分が責任をもつ組織を存続させることを第一の関心事とすることからくる問題だと思います。これらの人々にとって第二の関心事となるのは、その組織が創設された当初の、目先だけの小さな目的を達成することであり、そこでは、より広範な影響とか、最終的な結果とかは考慮されないのです。

【池田】 その端的なあらわれの一つが、高度工業社会にみられる公害でしょう。公害を引き起こした要因を考えてみますと、そこにはさまざまな要素がありますが、最も根本的な問題としては、人間と自然の関係性を無視した征服の思想、またそれに基づいた価値観が指摘されると思います。
しかし、私がここでとくに注目したいのは、それらの要因は、現時点ではたしかに批判の対象とはなっているものの、それぞれ歴史のある時点では、積極的に高く評価された考え方であり、思想であり、行動であったということです。つまり、それらの発想なり行動なりというものは、歴史的にみれば、決して非人間的な動機や衝動から出てきたのではなく、むしろほとんどの場合が、個々のレベルでは人間としての善意に基づいていたのではないでしょうか。
ところが、それら個人の発想の時点では善意であったものが累積され、社会のメカニズムに乗ってしまうと、各人の善意とはまったく異質の、ときにはその善意すら否定するような組織悪、社会悪となり、しかもそれらが拡大再生産されていきます。
たとえば、ある薬品を、人類の福祉に貢献するものと信じてつくり出した人がいるとします。ところが、それが一つの巨大な企業に発展していった場合、その薬が害を及ぼす危険性のあることに気づいても、もはやその薬の製造を中止するのは容易ではなくなってしまいます。それは、この薬品の製造がその企業という組織の生命になっているからで、製造中止の決定は、組織の生命にかかわる問題になるわけです。

【トインビー】 本来は善であったはずの組織が、いつのまにかその組織自体にも個々の成員にも難問題を投げかけるということは、よくあることです。たとえば、ある企業の労働組合の執行部が組合員の賃上げに成功したとしても、それが行き過ぎると、その結果は企業自体を破産させ、組合員たちもすべて永久に職場を失ってしまうということがあります。すると、せっかく組合が獲得した高賃金はもはや支払われず、組合員たちは収入がなくなって、国家支給の失業手当で生活していくというハメに陥ります。こうした結果というものは、当然、組合執行部や組合員の当初の願望に反するものですし、政府の願うところでもありません。それは、組織の近視眼的な運営から生じた結果なのです。

【池田】 その通りですね。この問題については、現代ほどそれが顕在化していなかった時代、すなわち十九世紀中頃から、すでに先見性ある哲学者や思想家がさまざまに指摘してはいますが、その解決法となると、いかんともしがたいようです。
労働者――資本主義社会の犠牲者としての民衆――の救済に真っ向から取り組んだはずのマルクス主義も、その社会理念が社会体制として現実化してくると、やはり人間がつくりなす組織悪、者会悪に覆われてしまっているようにみえます。こうした趨勢から、人間と社会、人間と組織、人間と体制という問題は、もはや解決不可能なのではないかという諦観も生まれ、そこから組織、集団に対する拒絶的な態度、すなわちニヒリズムやアナーキズムヘと傾斜していく動きも目立ってきています。