投稿者:まなこ 投稿日:2017年 6月 9日(金)08時01分7秒   通報
◆ 3 一般医と専門医

【池田】 現代医学の主流をなしているのが、近代科学の思考法に支えられた西洋医学であることは、いうまでもありません。しかし、その医学も、精神身体医学者が主張するように、人間生命
を分析し、専門分化を重ねた結果、真実の意味での人間の病気を見失おうとしています。つまり、西洋医学は、病める人間生命から病気を切り離してしまい、病気自体に関する知識を山のように積み重ねていながら、現実に苦悶する人間のほうは忘れ去っているというのが実情ではないでしょうか。

【トインビー】 残念なことに、西洋では過去三世紀の間に、医学は他の科学一般と同じ道をたどってしまいました。つまり、分析、選択、専門化といった方面に、進路を転じてしまったのです。
専門医は、ある一つの器官、一つの病気の取り扱いのみにとどまっています。ちなみに、私の父方の祖父は耳科専門医でした。ロンドンでは草分けの耳科医だったのです。専門医は、自分が治療にあたっている器官や病気の持ち主である患者の全体像には取り組みません。これに対して、一般医のほうは人間を全体的に診療するわけですが、彼らは専門医からはよろずやとか、“多芸は無芸”とかいわれてさげすまれています。
アメリカでは、近代西洋医学のこの専門化の傾向が、いまやその極に達した観があります。この国では、一般医がほとんど姿を消してしまいました。多くの専門医が、同じ屋根の下に診療室をかまえ、患者は一人の専門医から他の専門医へとタライ回しにされるのです。これでは、困るのは患者のほうです。まず、最初にどの専門医に診てもらったらよいのかわかりません。診断を下してくれる一般医がいないからです。
かつて、アメリカで、私ども夫婦がある大学の構内に着いたとき、妻は悪性の咽喉カタルにかかっていました。ところが、そこの学長の奥さんは、いったいどの専門医に診せたらよいのか、思案投げ首の様子でした。

【池田】 それが生命に関わる病気の場合だったら、大変なことでしたね。
たしかに専門医にはそれなりの存在価値があるわけですが、問題は、病人はその患部だけで苦しむのではなく、生命全体で苦しんでいるということです。もちろん、臓器や細胞組織の病的変化が原因であることは間違いありませんが、そのような物質的、肉体的変化が、そのまま生きている人間の苦悶に直結するわけではありません。また、そのような病変が、病人という人間のすべてであると考えることもできません。
西洋医学は、病気の人間の一部でしかない病的変化に執着するあまり、苦悶する人間生命そのものを放置し、かえって病状を悪化させるという愚行をさえ犯してきたように思えてなりません。極端な例をあげれば、外科的、薬学的方法によって、病気そのものは治ったけれども、そのときすでに病人は死亡していたという、常識では考えられないことも起こりうるわけです。

【トインビー】 そういった事態が起こりうるからこそ、私は一般医の役割というものを重視したいのです。
一般医は、普通、“かかりつけの医者”という名で親しまれていますが、これはまことに当を得た呼び名です。一般医は、たんなる技術屋ではありませんし、たんなる科学技術者にとどまるものでもありません。彼は、自分が診察している家族全員の友人であり、信頼できる友なのです。
また、一般医は、患者を人間として理解しており、互いに敬意をもち信頼し合うという人間的な関係にあるため、その技量を効果的に用いることができるのです。
一般医は、専門医によくある、自己過信がわざわいして職業上の危険を冒す、といったことはありません。彼は、自分の一般医としての知識と技量の限界をよくわきまえていますから、自分では手に負えないと判断したときには、適切な専門医を呼びます。そうした、専門医の助けが必要な場合、誰が適切な医師かをよく知っていなければならないのは、一般医として当然のことです。
医療においては、診断が何よりも大事です。その最初の診断を下すのが一般医です。その診断は不完全かもしれず、もしかすると誤診の場合もありましょう。しかし、これは必要不可欠な第一歩です。そのうえ、一般医の仕事は、最初から最後まで必要とされます。それは、一般医が、専門医と違って、患者やその環境を個人的によく知っているからです。専門医としては、そうした、かかりつけの医者だけが提供できる知識を参考にして措置を講じないかぎり、自分の技術をめくら滅法に使うことになります。その結果、患者にとっては百害あって一利なしということにもなりかねません。