投稿者:まなこ 投稿日:2017年 6月 4日(日)11時51分54秒   通報
【池田】 科学は、その限界のゆえに、その対象物にそなわっている独自の特性、たとえば定量化したり普遍化することのできない面を、どうしても捨象しがちです。とくに人間を対象とする場合、精神の独自の働きや、感情、意識といった微妙な性質等が排除されてしまいますね。

【トインビー】 科学は従来、諸現象の特性のうち、人間にとって技術上の目的を除いたあらゆる目的のために、最も重要なものを無視してきました。そして、そのかぎりでは成功を収めています。ところが、技術以外の目的にあっては、質的な印象を量的な概念に置き換えて表わすことは、人間の知性や審美眼を貧しくすることになります。つまり、音響学とか光学とかの科学によって量的に変形された音や色よりも、実際にこの耳で聞く音色、この目に映る色彩のほうが、われわれにとってより意義深く、より心を満たしてくれるものであるわけです。

【池田】 科学においては、対象はすべて“物質化”されてしまいます。とくに生命体は、物理的側面はほんの一面であるにもかかわらず、物質的な面だけが重視される結果、その精神的側面のもっている独自性は見失われ、抽象化、普遍化された生命一般という概念のなかに埋没してしまいます。つまり、科学的思考法は、本来、生命の物質化という働きを、その思考過程のなかに含んでいると考えざるをえません。

【トインビー】 ある人のことを評して「彼はサイファー(記号、とるに足らない人)だ」というとき、それはその人物に対する軽蔑の意を含みます。その意味は、その人物には、人間性に顕著な、重要で貴重な資質が欠けているということです。ところが、科学は文字通り人間をサイファーに変えてしまいます。つまり、人間の精神とか、その精神が関与している心身相関の生命体とかが、科学によって数式で説明されるとき、人間はたんなる記号と化すわけです。さらに、身元力ードとかコンピュータ用力ードには人名の代わりに番号が記載されますが、これも科学が人間を記号化している別の例です。

【池田】 つまり、普遍性を追求する科学を成り立たせようとするならば、個性的な要素、個体の独自性といったものは捨象せざるをえないわけですね。
こうした科学の思考法が、生命軽視の風潮を生み、生きている人間の真実の姿を見失いがちにさせていることは事実です。それは、現代人が、科学のこうした人間を記号化する思考法、個性を捨象する考え方が、あくまで部分的な目的を達成するための手段にしかすぎないことを忘れて、これを絶対視し、目的視していることによると思います。
しかも、人間の記号化、数式化は、人間を手段視するものであって、それは、真理を導き出すための思考の過程では許しても、社会や組織の運営、人間を対象とした実際的行動のうえでは、断じて許してはならないと私は考えます。

【トインビー】 人間は、人間性が喪失される度合いに応じて、操作されやすくなるものです。このことは、戦争が行なわれたとき、初めて発見されたといってよいでしょう。つまり、人間同士が、互いに喧嘩相手でもないのに、命を賭して殺し合うのを納得させるには、厳しい訓練によって催眠術をかけておかなければならないことがわかったのです。この戦争の訓練以外に、人間を他の人間の意志に従わせる方法としては、官僚主義化とコンビュータ化とがあります。
操作とは技術です。操作の対象が人間であろうと、人間以外の生物であろうと、あるいは無生物であろうと、それは変わりありません。そして、技術は定量化によって便利なものとなります。しかも定量化は、その対象物となるものを知的にも美的にも損傷してしまうものでありながら、技術にとってはまことに便利なものであるため、人間以外の自然と人間自身とをともに支配する力を生み出す源泉となっています。このように、科学は、技術による操作という、唯一の実用的な目的のために重要であるにすぎないのです。
科学が、定量化によって、技術のもつ潜在力を増大させるのは、善いことなのでしょうか、それとも悪いことなのでしょうか。本質的には、善悪いずれでもありません。この問題への解答は、場合に応じて出されるべきです。すなわち、科学の与える力を行使する人間自身が、その高められた力を間違いなく善用し、決して悪用しないだけの高い道徳的水準を身につけているかどうか、それによっていまの答えが決まるわけです。

【池田】 お説の通りです。科学それ自体は、善でも悪でもありません。善悪は、それによって得られる力を用いる段階で生じてくるものです。ただ、私は、そうした科学に対する人間の主体的なあり方を確固たるものにするためにも、科学的認識が、物事の把握において、絶対的なものか、それともそれ自体においても限界をもつものなのかの判断が、なされなければならないと考えます。
もし、われわれが、欠陥のあるものを完壁であると思ったら、それを真に生かすことはできません。真に活用できるためには、その長所とともに短所も、正しく認識していくべきでしょう。
仏法では、われわれが対象を認識する力を眼になぞらえて、五種の眼を説いています。すなわち、肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼の五つです。肉眼というのは、一般の人間的――生物的な感覚器官の一つである、この眼による認識です。“天”とは本来指導者のいる所をいい、天眼とは、指導者として人の心の動きを読み取る、敏感な察知力と考えていいでしょう。
慧眼というのは、理性によって物事を抽象化し、そこに普遍的な法則を見抜いていく力です。したがって、“科学の眼”は、五眼のなかでは慧眼に含まれるものと考えられます。この科学的理性である慧眼より、さらに深い認識力が、五眼のうちの法眼と仏眼です。 法眼というのは、自身の生命をみがき――仏法では、自己の生命の内奥から、慈悲の一念を湧き出させることを指して、生命をみがくといいます――それを鏡としてあらゆるものを照らし出し、対象物をありのままに見抜く認識力を示しています。仏眼というのは、宇宙生命の脈動する力と宇宙のあらゆる実相を自ら実感するとともに、それを体現し、そのような生命自体によって、人生、社会、宇宙等の諸事象を見抜く、透徹した洞察力を指します。
このように、仏法が五眼という概念を立てる真意は、理性や人間の感覚器官等の奥にある、生命内奥の英知を開き顕わすことにあります。このような法眼や仏眼をみがき、顕現させることが基盤となって初めて、慧眼の働きとしての科学的思考法がもつ“本源的限界”を乗り越え、科学の理性の光をさらに増すことができる、と私は考えています。また、人間の思考法の面からいっても、じつはここに、宗教としての仏法の役割があると思うのです。

【トインビー】 ただいまの、法眼、仏眼というのは、意識的知覚としての肉眼と、心理学的洞察力としての天眼と、理性の働きやそれを用いる科学的方法を含む慧眼の三つを、補い、矯正するものですね。そして、法眼、仏眼とは、慧眼と同じく、たんに物を見るためのものではなく、行動の手段ともなるわけですね。私には、法眼によって湧き出る慈悲というものは、人間性喪失という科学の悪影響に対する解毒剤になるもののように思えます。