投稿者:まなこ 投稿日:2017年 5月29日(月)08時50分33秒   通報
【池田】 博士はここで、大事な問題点を提起しておられます。つまり、いま述べられたような知的職業家仲間の閉鎖的なサークルが育ってきた理由の一つに、現代の学問にみられる特殊性があげられるという点です。
現代の学問の内容は、とくに科学技術の急速な発達の結果、あまりに専門的に分化しています。学問の内容がこのように理解しがたくなっているところから、大衆は、知識人に対して敵意に近い感情を抱いたり、あるいは逆に盲目的な崇拝の念をもったりするのではないでしょうか。また、知識人のほうでも、どうせ自分たちのやっていることは俗人どもにはわからないのだという、見下した態度をとることになるのでしょう。このように、学問の内容が高度になればなるほど、分化し専門化して、門外漢には理解しがたくなることが、今日、大衆から知識人を遊離させる大きな原因になっているようです。
現代の学問を大衆から理解されるものにするためには、専門化から一般化へ、そして分化から総合化へと、学問の流れを変えることが必要でしょう。いいかえれば、学問の世界においても、大衆からかけ離れた高踏性を重んじるのではなく、大衆への緊密性、さらには大衆への指導性――指導性というと語弊があるかもしれませんが、いうならば人間生活における有用性――を、より重んじていかなければならないと思うのです。

【トインビー】 私もまったく同じ気持ちで、専門化の行き過ぎを憂えております。過度の専門化は、専門家と一般大衆――知的ではあっても専門的でないという人々を含めた一般人――を、互いに疎外させます。
専門家は、そうでない人々を素人として軽蔑したがります。また、専門家でない人々は、専門家に対して、彼らは専門家仲間だけの小さなグループ以外には通用しない無用の長物であるとして、けなしがちです。これは、私個人としては、専門家でない人々の言い分のほうが正しいと思っています。専門家は、たとえそれが自分だけの特殊な分野の研究であったとしても、それを取り囲む環境から孤立して研究を推し進めるなら、やはり偏見に陥ってしまいます。
現代の世界をよく理解し、これに対処しようとするためには、私には、専門化はまずいアプローチであるように思われます。なぜなら、あらゆる民族、あらゆる人生の様相、あらゆる活動がますます相互依存的になってきているからです。われわれは、全体的な視野を必要とする時代に生きているのです。

【池田】 まったく同感です。さらに付け加えていえば、今日の教育のあり方というものが、そうした知識人グループの孤立化に拍車をかけているともいえましょう。 いわゆる知識人になるには、まず第一に金と時間の余裕がなければなりませんが、大部分の人人にはそれがありません。いうなれば、運命的に定められた生活条件の差異というものが、すでに知識人になるか、それとも早く社会に出て職業に就かなければならないかの分かれ目になっています。運命的というのは、青少年にとってみれば、勉学に当てられる期間というものは、まだ親の援助に頼っている時代であり、自分の力ではどうにもならない場合が多いからです。
家庭が十分に支援できる力をもたない場合、知識人となれる適応性においてとくに優れている青少年に対しては、国家ないし財団が肩代わりして支援する例がありますが、これもきわめて少数にすぎません。このような、自分の責任ではどうしようもない条件によって差別されているという意識が、恵まれた道を歩む者への羨望となり、ここから知識人と大衆の断絶の一因が生じているということもできましょう。

【トインビー】 私もほぼ同じ意見ですが、そこにはもう少し複雑な要素も絡んでいるようです。
知識人となるためには、三つの条件が必要です。第一に、知的能力です。つまり、天賦の才ということですが、これはしかし、きわめて不公平な形でしか与えられていません。第二に、勤勉さに耐え、よき行動をとる意志です。つまり徳行ということですが、これは各人が自分の力で実践できることです。第三には、長期的にわたる教育です。これには金がかかりますが、それは学生の両親とか、何らかの公共の財源によって支給されなければなりません。知識人として自活できるようになるには、相当の長年月を要するからです。 いうなれば、知識人と社会とは、互いに道義上の義務関係に立っています。つまり、知識人は、かつて自分の教育のために投資された公共の財源を還元するため、有益な社会奉仕をするという義務を負っています。これに対して、社会は、知識人の仕事が社会に価値をもたらすことを想定して、知識人が能率的に活動できるよう、十分に金銭的援助を与える義務を負っています。
私の世代には、イギリスでは奨学金制度が十分でなく、奨学金獲得の競争は、いま思ってもあまりに熾烈すぎました。もちろん、いかに恵まれない条件のもとでも、ぬきんでた能力の持ち主というものは、常にそうした競争に勝ち抜いたものですし、それは今後も変わらないでしょう。しかし、あまりにも条件が厳しいという場合、最も優れた能力の持ち主以外の人々が、すべてその隠れた能力を社会に役立たせるチャンスを奪われる、ということも考えられるわけです。