2018年2月20日 投稿者:一人のSGI 投稿日:2018年 2月20日(火)18時08分18秒 通報 編集済 螺髪さん ご質問の件の返信遅くなりました。 できるだけ分かりやすいように書いたつもりですが、分かりにくいようでしたら又ご質問下さい。 まず最初の部分は螺髪さんにではなく、現学会の教学に対しての態度に意見したいと思います。 聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う 聖人知三世事 p974 「三世を知る」ということは、いわゆる通力ではない。事象の法則に通達しているということである。 科学の世界でも同じことがいえるが、不変の法則を正しく洞察したときに、物象や未来の予見ができるのである。 仏法は生命の正しい因果の法理を究めたものであるゆえに、仏法に通達した聖人は「三世を知る」ことができるのである。 三世を貫く生命の因果の理法の解明は、実に仏教に限られるのである。それゆえに 「小乗の二乗は過去・未来の因果を知る外道に勝れたる聖人なり」といわれるのである。 http://www.geocities.co.jp/inae_sokagakkai/16/newpage1.html#0057 生命の正しい法理、三世を貫く生命の因果の理法を、「委細に」知っている人を「聖人」と言う、という事です。 私達は「聖人」にはなれないでしょうが、少なくとも大聖人の弟子と名乗るなら、できるだけ「委細に」「因果の理法」を勉強するべきではないでしょうか。 「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」 諸法実相抄 p1361 ともあります。 しかし最近学会では、教学は勉強しなくていいという指導だと聞いています。 そうすると教学試験は形だけなのと、自分たちの主張を広める為のツールとして、利用しているだけなのですね。 そこには本当の仏法の精神はないことになります。 Tweet