投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2017年 8月13日(日)08時48分31秒   通報
【関連資料Ⅳ】「創価学会の歴史と確信」戸田先生の論文(昭和26年7月10日)

以上のように、学会活動は消極的であったことは、いなまれないのである。
しかるに、日本の国は滅びている。日本の民衆は、悩みに悩んでいる。

学会は当然、立たなければならないのである。
学会再発足のとき、立正交成会も同じく小さな教団として、
やっと息をついていたのは、自分たちのよく知っていることろである。

しかるに、七か年の時を経過して、かれは大なる教団となって邪教の臭気を世にばらまいている。

大聖人の真の仏法を奉持して邪宗ののさばるにまかせているのは、だれの罪かと私は自問した。

「これは創価学会を率いる者の罪である」と自答せざるをえないのである。

また自分は、文底独一の教理を説いていると深く信じているが、教本には文上の法華経を用いている。

この二つの罪は、御本仏の許すべかざるものである。私は大難をうけたのである。
立つべき秋に立たず、つくべき位置につかず、釈迦文上の法華経をもてあそぶ者として、

大謗法の罪に私は問われたのである。

ありがたや、死して無間地獄うたがいなき身が、御本尊の功徳はありがたく、現世に気づくことができたのである。

私は、悩みに悩みとおしたのである。理事長の位置を矢島周平氏にゆずり、
敢然と悩みのなかに突入したのであった。

「転重軽受法門」のありがたさ、
「兄弟抄」の三障四魔のおことばのありがたさ、泣きぬれたのであった。

兄弟抄の御おおせには、
「其の上摩訶止観の第五の巻の一念三千は今一重立ち入たる法門ぞかし、
此の法門を申すには必ず摩出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、

第五の巻に云く『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず
之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ』等云云、
此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」
(御書全集一〇八七ページ)と。

以上の二つの法門を身に読ましていただいた私は、このたびは路上において、
「霊山一会の大衆儼然として未だ散らず」して、私の身のなかに、

永遠のすがたでましますことと、拝んだのであった。

私は歓喜にもえたのである。私は証のありしだい敢然立つことを決意したのである。
なぜ、こんなに、私は会長たることをいやがったのであろうか。私自身、理解のできない境地であった。

いまにしてこれを考えると、もっともなことであるとも思われる。
創価学会の使命は、じつに重大であって、創価学会の誕生には深い深い意義があったのである。

ゆえに、絶対の確信ある者でなければ、その位置にはつけないので、私にその確信なく、
なんとなく恐れをいだいたものにちがいない。

牧口会長のあの確信を想起せよ。絶対の確信に立たれていたではないか。
あの太平洋戦争のころ、腰抜け坊主が国家に迎合しようとしているとき、

一国の隆昌のためには国家諫暁よりないとして、「日蓮正宗をつぶしても
国家諫暁をなして日本民衆を救い、宗祖の志をつがなくてはならぬ」と

厳然たる命令をくだされたことを思い出すなら、先生の確信のほどがしのばれるのである。

いまの私は不肖にして、いまだ絶対の確信はなしといえども、
大聖人が御出現のおすがたをつくづく拝したてまつり、一大信心に立って、
この愚鈍の身をただ御本尊に捧げたてまつるという一法のみによって、
会長の位置につかんと決意したのである。