投稿者:赤胴鈴之助 投稿日:2017年 8月10日(木)03時45分51秒   通報
21世紀への選択 「他者の苦」「永遠なるもの」に対する感性  P67

池田
しかし、ムハンマドの心の中には「しこり」や「刺」のような何かが、常にあった……。

それはおそらく、彼の人間性から発したものであったのでしょう。彼は社会の矛盾に対

して、決して目を閉じてはおれなかった。

『コーラン』には、孤児や貧しき人、孤独な人を大切にするよう促す文章がたくさんあり

ますね。

テヘラニアン
『コーラン』の「爽昧の章」(九三章。「朝明けの章」とも呼ばれる)には、

こうあります。

「(主は)もともと孤児の汝を見つけ出して、やさしく庇って下さったお方ではないか。

道に迷っている汝を見つけて、手を引いて下さったお方、赤貧の汝を見つけて、金持ちに

して下さったお方ではないか」〔九三・六~八〕(前掲書)

ムハンマドの生い立ちの消息を語る印象深い一節です。

池田
次の『コーラン』の一節も、鋭敏なムハンマドの感性を物語っていますね。

「現世の生活はただ束の間の遊びごと、戯れごと、徒なる飾り。ただいたずらに(血筋)を

誇り合い、かたみに財宝と息子の数を競うだけのこと」〔五七・一九〕(前掲書)

実は、仏教の開祖である釈尊の青年時代にも、同じような「実存的な心のしこり」が

ありました。

釈尊は王子として生まれましたが、生後一週間で母を失っています。経済的には、何不

自由ない生活を送るなかで、貧富の差などの社会的な矛盾や、宮廷生活の贅沢ぶりへの

疑問を、常に感じていたようです。

私は、偉大な宗教の創始者の生涯を見たとき、二つの感性において、非常に敏感であ

ったように思えてなりません。それは「他者の苦に対する感性」そして「永遠なるものに

対する感性」です。

テヘラニアン
仏教でいうところの、「慈悲」と「智慧」のことですね。

池田
そうです。若き釈尊が王子の位を捨て、一人、求道の旅に出たように、ムハンマ

ドもまた、やがて一人で思索にふけることが、しばしば見られるようになりました。当時

のそうした人々と同様、洞窟の中で過ごすことも多かったといいます。

そして、かの「ライラ・アルカドル(威力の夜)」が訪れる。

西暦六一〇年、洞窟の中で突然、天使ジブリール(旧約聖書のガブリエル)の「啓示を

読め」という声を聞いたといわれていますが。

テヘラニアン
ええ。以後この啓示は、二十数年間、死を迎えるまで断続的に続きました。

これを集めたものが『コーラン』です。

「神の啓示」というと「非科学的だ」と一笑に付す向きがあるかもしれませんが、「啓示

宗教」というイスラムの特質を考慮すると、そう不思議でも奇妙なことでもありません。

そもそも、「非科学的」という決めつけこそが、非科学的態度そのものです。

言葉や表現の表層ではなく、その奥にどのような意味をもつかを考えねばなりません。

啓示の言葉は詩の言葉に近い象徴的なもので、字義だけにとらわれるべきではありません。

池田
現代の学者の表現を使うと、「啓示」は「理念系」といえますね。別の言葉を使えば、

「表現の体系」といってもいいかもしれない。

例えば、芸術でいうと、パブロ・ピカソは、あの独特の描写を用いて彼の芸術的イン

スピレーション(霊感)を表現したのです。

それを「生物学的にこのような顔をした人間はいない」などといっては、「芸術を解さない人だ」

と逆に笑われてしまうでしょう。(笑)

テヘラニアン
おっしゃるとおりです。