投稿者:赤胴鈴之助 投稿日:2017年 8月 8日(火)02時54分40秒   通報
21世紀への選択 自己中心の世界観からの脱却 P64

テヘラニアン
そのような態度を、エドワード・W・サイードは”オリエンタリズム(東洋主義)”と名づけ、

批判しました。彼はこう述べています。

「人はつねに、世界を、実在または想像上の特質によって相互に区別されるような幾つか

の地域へと分割してきた」

「(東と西の)関係は、さまざまな用語によって表現された。バルフォアやクローマーは、

これらの用語の幾つかを型どおりにつかってみせた。例えば、東洋人は非合理で下劣で

(堕落していて)幼稚で『異常』である。したがって、ヨーロッパ人は、合理的で、有徳で、

成熟しており、かつ『正常』であるということになる」
(今沢紀子訳『オリエンタリズム上』、平凡社ライブラリi)

池田
サイードについては、いろいろな評価がありますが、著書『オリエンタリズム』が

時代を画した著作であることは確かでしょう。

サイードに反対の立場の人も、アジアやコロニアリズム(植民地主義)について語ると

きには、『オリエンタリズム』に着目せざるをえないようです。

重い病と闘いながら、常に「少数者」の立場に立とうとしたその意志、発言、そして

行動は高く評価されます。

人が他者を差別するとき、差別の因は決して差別される側にはない。差別する側にある

のです。相手が劣っているのではなく、見るほうがそういう見方しかできないからです。

テヘラニアン
おっしゃるとおりです。

池田
“オリエンタリズム”は、ヨーロッパ、アメリカだけの問題ではありません。

アジアの一員でありながら、「脱亜入欧」をスローガンに、アジア的なものを欧米的な

ものよりも低く見て、「アジアの盟主」として、君臨しようとしてきた日本の、アジア

を見る”まなざし”は、複雑で錯綜的です。

テヘラニアン
本来、世界は「西洋」「東洋」などと、簡単に分類できるはずはないのです。

例えば、ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラムという、世界的に大きな影響をもった宗教は、

同じ西アジアを発祥の地としています。

池田
そうですね。欧米の社会の精神的土台となった諸宗教が、西アジアで生まれたので

すから、欧米はアジアを異者として排除はできないはずですね。文化というものは、それ

ほど融合している。日本も、漢字や儒教、仏教をアジアの国々から贈られました。

テヘラニアン
ですから、「純粋な民族」「純粋な国」などというものは存在せず、その

概念が、どれほど偏見に満ちた危険な幻想かがわかります。

池田
その危険な「幻想」につき動かされ、悲劇を繰り返してしまったのが、二十世紀で
した。

私が博士をはじめとするさまざまな方々と、文化や民族、宗教の違いを超えて対話を繰

り返しているのも、対話によって「他者」と出会い、相互に触発されるなかで、地球上

に、より多元的な平和交流を広げたいという思いからなのです。