投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2017年 7月20日(木)17時02分57秒   通報
幹部の指導や自分の意見が尊重されるのは、
精密な理論もさることながら、その理論を裏付ける

実験結果(または体験)をともなっていることにあります。

実験や観測の裏付けをもたない主張や学説は、単なる仮説にすぎません。

自然科学などでさえ、それだけの現実の結果を重視しているのです。

ましてや生命の理を説き、正しい人生のあり方を説く「宗教・思想・指導・意見」が、

もし現実生活の上に理論通りの〝証拠〟をもたなければ、

何の役にも立たないばかりか、かえって〝害悪〟になってしまいます。

なぜかというと、

教義や思想は「人の行動原理」となるものであり、
その人の人生に影響を及ぼすものだからです。

だから現証をともなわない文証や理証は、完全なものとは言えないのです。

これが〝現証〟が最も大切な理由です。

つまり、文証も理証も〝現証〟があって、はじめて完結するのです。

以上が宗教・思想の正邪を判断する基準(三証の原理)です。

もう皆さんもお気づきかと思いますが、
この三証はすでに任用試験で習っているはずです。

しかし〝学んでそれで終わり〟〝理解してそれで終わり〟ではなく、

理解した法理(三証)を、他人ではなく、
まず「わが身に合わせて考える」という鍛錬があって、

はじめて身読(悟る)といえるのです。

「信・行・学」は、決して別々のものではなく一体のものです。

この三つを同時進行で挑戦していく中にこそ、信心の輝きがあるのだと思います。

日蓮仏法はすべてにおいて絶対的な幸福を指向しています。
だから結局は、理論通りの結果をともなうかどうかということに帰着し、

日蓮仏法を信じた人の現実の生活に、良くも悪くも厳然と表れてくるのです。

― おわり ―