投稿者:サンダーバード 投稿日:2017年 7月 3日(月)05時49分25秒   通報
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宗門問題の真相

慧文を始祖とすれば南岳慧思、天台智顗と天台は第3祖であるが、天台宗の開祖といえる。同様に牧口・戸田の両会長が存在しても、今日の創価学会を作り上げたのは紛れもなく池田先生である。もっとはっきり言えば、両会長ではとても今日の創価学会はあり得なかったということである。これは三代会長の年譜を詳細に検討してきた私の率直な感想である。

池田門下生と戸田門下生の違いは、はっきりしている。戸田の命より大事な創価学会の組織という戸田の意志を受け継ぐ人々が戸田門下生である。したがって彼らは、創価学会が無ければ広宣流布は出来ないと考えている。

池田先生は池田の命より大事な創価学会の組織とは言ってない。むしろ先生は、世界広布に創価学会はいらないという。ニューヨークに本部を設置しユダヤ協会のような組織でなければ世界広布はできないとまで言われた。

池田門下生は、創価学会が無くなっても池田先生とその精神があれば、世界広布は必ず出来ると信じている。この違いは、池田会長勇退のときに顕著に現れた。

池田名誉会長の年譜がほぼ完成したが公開することにまだ躊躇している。それでも第一次宗門問題と第二次宗門問題の真相に近づけたと確信している。

第一次宗門問題は、細井日達と石田次男の共同謀議によって引き起こされた。石田は創価学会を自分の理想の組織にしたいと考えた。そのためには二つの方法が考えられた。宗門を利用して自身が会長になること。もう一つは宗門との間に入って陰で操ることだった。そして戸田先生の時代に帰えらねばならないと考えた。石田は悩んだ末後者を選んだ。池田会長の勇退は、宗門の最高責任者と石田次男による謀略で実行された。

山友は、そのための扇動者として利用したのである。「ある信者からの手紙」を書いた山友が浜中を通して光久(仲居)の女房に清書させ それを日達にだけ見せるように指示した。山友の具体的な反逆行為はこの時点から行動となって始まっている。創価学会の顧問弁護士である山友が反逆の行動を起こした理由は、金を手にするためのマッチポンプである。したがって自分の行動を学会側に知られたくはなかったのは当然である。

この手紙を読んだ日達は、石田に電話で相談した。浜中からの報告で山友が書いたものであること、山友がまだ学会の顧問弁護士でありこの煽動に乗っても大丈夫かと相談したのである。二人が相談した結論は、池田包囲網に山友を利用しようということであった。

日達と石田と山友の三人はそれぞれの思惑を抱えながら歩調を合わせたような行動を開始した。すべて石田の指示である。日達は学会を宗門に完全に従属させるためであり、石田は学会と宗門を裏で操るためであり、山友は両方から金を得るためである。

昭和53年1月18日のことである。翌日の19日に、若手の活動家僧侶約140名の前で山友の手紙を公表することを日達は指示した。びっくりしたのは山友と創価学会の執行部だけである。自分が顧問をしている組織団体の悪口をいう弁護士を普通なら誰が信用するだろう。

昭和53年5月3日 先生は、山友に『四面楚歌 君がおわせば 王の道』との色紙を贈っている。自分の裏の行動を池田会長に知られていないと確信した山友は、その後も調子に乗って日達に献策書を提出していった。

宗門の海外部の設置もその一つである。海外寺院建設用地による土地ころがしを目論んでいた。これは、墓地建設の土地ころがしで吸ったうま味の再現である。日達も池田会長に会えば学会と宗門は仲良くして行こうと言いながら山友の献策を利用していったのである。これはすべてが表面化した時も責任を山友一人に転嫁するためである。石田の謀略が計画通り進行していったのである。日達の行動は石田と協調した歩調合せである。したがって宗門と上手く好くかに見えながらその都度壊れていったのである。

法主からの院達を若手僧侶が無視するような行動が、現実に起きることはない。僧籍の剥奪、破門を覚悟しなくてはいないくらいの問題である。若手僧侶の声を無視できないという装いをとりながらの扇動である。

日達は池田会長を交代させればすべては上手く好くと単純に思っている。しかし学会の内状に詳しい石田は、学会内部に手を打つ必要があることを熟知していた。石田は日達に会長候補の名前を若手幹部に絞って伝え、日達からそれを池田会長に進言させていた。このことが「カノッサの屈辱」と呼ばれる事件である。これが大田の家での逆鱗騒動へと繋がっていった。

石田が次期会長候補に若手を推薦したのは二つの理由からである。一つは扱いやすいからであり もう一つは福島が会長になっては困るからである。福島源次郎の追い落し策は、石田の作戦通りに進む。池田会長を外しても次の会長候補の一番手である福島は目の上のタンコブでもあった。54年の3月に大牟田での発言の揚げ足を取り「猊下が怒っている」と山友から先生に伝えさせた。54年4月、池田会長の勇退とともに福島の辞任が発表された。

第四代会長が北条浩に決まることに対し日達は、扱いやすい若手にしたかったが、石田は北条の方が学会と池田会長に止めを刺すための仕上げがし易いと日達に進言し日達も了承した。北条を攻めれば学会と池田会長を守るために黙らせ従わせることが出来ると読んでいた。数年後に会長を秋谷にする算段であった。いずれ党の委員長も石田幸四郎にしたいとも考えていた。これで宗門と創価学会、公明党は思うようになる。石田の謀略の筋書きである。54年5月14日 山友が大講頭に任命されたのも石田の入れ知恵である。この時点で山友を表に出すが、石田は最後まで表面に出ないようにしていた。学会側もこの人事には仰天した。誰もが何故という疑問を持ったのである。会長勇退の3週間後である。

宗門と石田は北条を攻め立てた。もともと宗門の経理に口を出してきた北条は、宗門の敵でもあった。さらに北条を攻めることによって、先生を守ろうとする北条の手足を雁字搦めにしていく作戦は効を奏したといえる。ところが石田の謀略に誤算が生じたのである。それは三つあった。

一つは日達の死である。次期法主は誰になるのか予想すらできなかった。日達からは何も聞いていなかったのである。二つ目は北条の早死である。完全に学会を傘下に収める前に死んでしまったのである。それでも秋谷が会長になったことによりしばらく静観することになる。

宗門は池田先生を完全に抹殺することしか頭にない。秋谷では石田の手前あまり学会攻撃は出来なくなっていた。その代り学会にやらせたのは寺院の建立である。三つ目は日顕が思った以上に愚かだったことである。日達が死に北条が死んで、日顕と秋谷体制になったことで、静観してきたのだが、山友と日顕という最悪の組み合わせがすべてをぶち壊す時が到来する危険を感じてきた。

第二次宗門問題である。調子に乗った宗門は、C作戦を断行していく。そうすれば学会を完全に掌握できると思考は単純である。日顕の単細胞的行動に一抹の不安はあった。法主絶対主義は、法主本仏論と共に誤りであることを確信していた。このままでは池田名誉会長の破門だけでは終わらないかもしれないという危惧をいだいた。

そんな危機感が彼を突き動かし決断させたのが、1986年の脱会宣言である。「内外一致の妙法」という批判書を公表せざるを得なかったといえる。福島や原島から聞かされてきた内部造反組(山崎(尚)、上田、桐村、野崎(兄・弟)、宮川、八尋)と秋谷を引き連れて、池田批判の先頭に名乗り出て学会の破門、宗門からの離脱だけは避けようとしたのである。石田の脱会宣言から3か月後に福島も脱会宣言したのである。彼らは自分の後ろ盾に巡り合ったような気になったのである。二人とも石田の子分のようなふるまいをするようになっていく。

第一次宗門問題は、学会側の黒幕でもあった石田の反逆が明確になったことにより、宗門問題の現状を会員にすべて公表させるという池田名誉会長の決断がなされたのである。石田が脱会宣言した翌月の2月22日、金舞会館で行われた金城会総会の席上、宗門と石田への反撃宣言をしたのである。こうなれば行き着くところまでいかなくては決着はつかない。とはいえ学会から宗門離脱の宣言はしない。あくまでも信徒を切り捨てた形での決着を想定した。

五年後に石田の危惧は現実となる。この五年間、何も出来なかった自分を後悔した。石田が死ぬ(1992年平成4年2月4日膵臓ガン)3か月前の創価学会の破門(1991年平成3年11月29日)という宗門の暴挙を見て石田は、戸田先生に申し訳ないことをしてしまったことにようやく気付いたが、時すでに遅しであった。創価学会と宗門の分離を目の当たりにして自分がやってきたことが失敗であったことを自覚した。

しかし人は皆、自分の信じる生き方を生きてきただけである。人は自分で選択した人生であっても後悔するんだろうなとつくづく思う。石田が死ぬ少し前に親族の一人である秋谷がこう呟いた。「彼はもう反省しているんだ。なにもそんなに悪者にしなくても・・・」

東京事務長会に遅れて出席した秋谷は、壇上に着くなりいきなりこう呟いた。顔面蒼白で心ここにあらずの態であった。その後わずかな沈黙にハッと我に返ったような表情を浮かべると、事務長会のメンバーを見渡し会長指導が始まった。