投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 4日(水)09時40分46秒

このうち、教育者と宗教的使者については、思想や宗教の世界では
一般的によく見かける指導者像ですから、私たちの目にもさほど違和感がありません。

しかし、最後の「人間的究極者」になると、もはや前代未聞という以外にありません。

牧口・戸田両先生と比較して、
池田先生に対する社会の一部からの反発は、特段に強いという印象があります。

その理由は、池田先生が学会を大発展させたからだけではないでしょう。
池田先生が「人間主義の宗教」を強調し、自らも人間的究極者の理想に生きようとしたことが、
知ると知らずとにかかわらず、大きな波紋や誤解を呼んだように思うのです。

人間的究極者とは、何も絶対的なカリスマを言うのではありません。
それは、仏法の信仰を通じて「自己」の究極を開花させゆく人間のことです。

池田先生は、師と弟子が向かい合うのではなく、同じ方向を見て進むべきだと訴えています。

もちろん、修行の上では師弟が向かい合う相対の関係も必要です。
しかしそれは、弟子が師を尊敬する一方で、師も弟子を尊敬するような師弟相対であり、
両者が尊敬を捧げる先には、一切平等の妙法があります。
だから結局、妙法の師弟は同じ方向を向いているのです。

皆が未完成の完成者として、尊敬し合う世界における中心軸、それが池田先生なのです。

先生は、全学会員とまったく平等でありながら、
しかも平等の世界を成り立たせるために、特別な位置を占めています。

模範の師なくして、修行も相互尊敬も成り立ちません。

一切平等ながら、いや、一切平等のゆえに、
池田先生の存在だけは、余人を持って代え難いのです。

そうした面から創価学会は、三代の会長を「永遠の指導者」と規定しているのだと思います。
池田先生の指導は、中道の実践をする立場から、基本的に「皆が仏」というのが先生の世界です。

「自己こそ最高に尊貴なり」とする世界では、
模範となるべき「師の人格」の偉大さが強調されるのは当然の帰結でしょう。

「牧口先生時代」や「戸田先生時代」に比べて
「池田先生時代」に《師の尊敬》が声高に強調されるのは
「自己の信仰」の意義から考えると、決して怪しいものでもありません。

それを見て
「戸田時代になかった個人崇拝ではないか」と批判する人がいるとしたら、
創価学会の信仰が「代」を経るごとに重層化し、池田先生時代に初めて
「自己の信仰」が中心的位置を占めたということに「無知」なだけです。