投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 4日(水)09時41分32秒  

創価学会の批判の中には、この学会内の「師弟関係」に向けられることがよくありますが、
法華経の重要な箇所(従地涌出品から嘱塁品まで)では、永遠の師弟の道が説かれています。

だから日蓮仏法も、創価思想も、師弟の道を非常に重視しているのです。

池田先生は戸田先生の弟子であり、私たちは池田先生を師匠と仰いでいます。

しかし、この法華経の精神である師弟の道を、
まるで専制君主と奴隷的人民の関係のように扱い「池田独裁論」とあげつらう言説が見られますが、
その批判者たちは、池田先生が指導する「師弟不二」の精神を、権力者への盲従と捉えて、
信仰者の心の内面を知ろうともしない点に問題があると思うのです。

誰かが自分にとって、価値ある何かを示したとすれば、
自然と頭を低くして、教えを請うのが人の常です。

これと同じように、信仰者もより深い宗教的洞察を持った人に、
より深く敬意を表すものです。

真面目な信仰者が「師に随順」するのは、その師を心から尊敬し、
また師の教えに無上の価値を感じるからに他なりません。

これが強制的な主従関係にしか見えないようなら、その人は、
およそ思想や人格に対して、尊敬の感情というものを持ち合わせていないのでしょう。

要するに、創価思想の「師弟不二論」は、
同じ目的に進む戦友の関係であるといえるのではないでしょうか。

池田先生の思考は徹頭徹尾、人間から出発して人間へと帰着します。

だからこそ「人間主義」の哲学と言われるわけですが、
人間の存在が、社会や環境と関わる局面を考える場合にもこの姿勢はかわりません。
つまり、社会的な存在としての人間は「すべてを生かす哲学」の実践者たるべきなのです。

ここ数十年の池田先生の行動は、
他の宗教や思想との対話に、積極的な姿勢を貫いてきました。

池田先生は、キリスト教の神学者、儒教の知識人、マルクス主義を奉ずる政治家、
中国の著名な仏教学者、東南アジアのイスラムの指導者等々、次々と対話の機会を持ち、
数多くの対談集を発刊してきました。

池田先生が対話する相手は主義や信条といった
思想の服をすべて脱ぎ捨てた裸の人間、生活者としての人間です。

しかしこれは、自らの信仰を捨ててまで、
人間対人間の話し合いを行うという意味ではありません。

仏法はむしろ、生活者としての人間を無二に尊重する哲学なのです。