投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 2月 4日(水)09時43分16秒  

池田先生が戸田先生に初めて会った座談会場で、
真っ先に質問したのは「正しい人生とは何か」であったと言います。

この質問で感じることは、池田思想の出発は「人間」の探求からだと思います。

それが、創価学会の信仰を通じて思想上に血肉を与えられ、
裸の人間同士が打ちあう真剣な実践の中で鍛えられ、
日々の思索によって次第に深められながら、今日の「人間論」「人間主義」と言われる
一つの実践的な思想を生み出してきたのだと思うのです。

冒頭に、人間論は、仏法の「慈悲」を社会理念化するものと捉えることができ、
人間存在の社会的意義を規定する創価思想の「社会哲学(社会のあり方について考える哲学)」を
鮮明にしていきますと述べました。

池田先生は、常日頃から、自分は平凡な庶民の一員であることを強調しています。

大国の指導者と会見しても、一民間人の立場を標榜し、最高学府から名誉称号を授かる時には、
庶民の代表に対する栄誉として受けるのが常です。

世界的な歴史学者であるアーノルド・トインビーとの対談の中で、
人間生命の全体性について、池田先生はこう説明しています。

「知性、理性、感情は、この生命自体の表面の部分であって、生命全体ではありません。
知性や理性、感情は、この全体的生命を守り、そのより崇高な発現のために奉仕すべきものです」
(池田大作全集第三巻 二九八頁)と。

生命こそ「人間の全体性である」というならば、
「知的」な学者も「感性」に生きる芸術家も「理性」ある社会を築こうとする社会活動家も、
それぞれ専門家である前に、等しく生命という「人間の全体性に生きる」存在者でしょう。

池田先生は、トインビーとの対談で
「人間は、知識人や大衆である前に、同じ人間であるということを、まず大前提におかねばならない」
(同前、一三五頁)と主張しています。

池田先生の多面的な活動は、孤高の高みを目指す行動なのではなく
「生命」という原点の全体性にいき抜いた証なのではないでしょうか。

先生は、生命を磨く仏法の信仰者として、また人間の全体性に徹する者として、
知性であれ、理性であれ、感情であれ、あらゆる精神活動を自在に生かし、多彩な活動を行ってきました。

池田先生は言います
「総合性こそ、信仰者の徳である。《妙法蓮華経》には、徳も生命力も情熱も、知性も福運も哲学も、すべてが総合的に備わっている」
(一九九九年、第三十三回本部幹部会での講演)――と。