投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール 投稿日:2017年 5月26日(金)19時36分36秒   通報 編集済
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如来受量品にいわく、

「諸(もろもろ)の善男子、如来諸の衆生の、小法(しょうぼう)を楽(ねが)える徳薄垢重(とくはつくじゅ
う)の者を見ては、是(こ)の人の為に、我少(わか)くして出家し、阿耨多羅三藐三菩提を得たりと説く。然る
に我、実に成仏してより己来(このかた)、久遠なること斯くの若(ごと)し」(同四九九㌻)

自我偈にいわく、

「我仏(われほとけ)を得てより来(このかた)経(へ)たる所の諸(もろもろ)の功数(こつしゅ)無量百千
万 億歳阿僧祇(おくさいあそうぎ)なり」(同五〇六㌻)

上の経文(原文は・・右の経文)は、法華経のごく一部であるが、およそ釈尊一代の仏教は、生命の前世、現世及
び来世のいわゆる三世の生命を大前提として説かれているのである。ゆえに、仏教から三世の生命観をぬきさり、
生命は現世だけであるとしたならば、仏教哲学は全くその根拠を失ってしまうと考えられるのである。

しこうして、各経典には、生命の遠近(おんごん)、広狭(こうきょう)によって、その経典の高下浅深がうかが
われるのである。さらに、日蓮大聖人にあっても、三世の生命観の上に立っていることはいうまでもない。ただ、
釈尊よりは大聖人は、生命の存在をより深く、より本源的に考えられているのである。

開目抄にいわく、

「儒家(じゅけ)には三皇・五帝・三王・此等を天尊と称す・・・・貴賎・苦楽・是非・得失等は皆自然等云々。
斯くのごとく巧みに立つといえども・いまだ過去・未来を一部も知らず玄とは黒なり幽なりかるがゆえに玄という
但現在計り知れぬににたり」(御書一八六㌻)