投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール 投稿日:2017年 5月21日(日)11時40分20秒   通報
(1)http://6027.teacup.com/situation/bbs/69176 に続く

また、桜の木がある。あの枝を折って、花瓶に挿しておいたら、やがて、つぼみは花となり、弱々しい若葉も開いてくる。
このさくらの枝の生命と、元のさくらの木の生命とは、別のものであるか、同じものであるのだろうか。
生命とは、ますます不可解のものである。

その昔、生まれて間もない一人の娘が死んで、悩み苦しみ抜いたことを思い出してみる。
そのとき、自分は娘に死なれて、こんなに悩む、もし妻が死んだら(その妻も死んで自分を悲しませたが)・・・
もし親が死んだら(その親も死んで、私は非常に泣いたのであったが)・・・・と思ったときに、身ぶるいして、
さらに自分自身が死に直面したらどうか・・と考えたら、目がくらくらするのであった。

それ以来、キリスト教の信仰にはいったり、または阿弥陀経(あみだきょう)によったりして、たえず道を求めてきたが、
どうしても生命の問題にかんして、心の奥底から納得するものは、何ひとつえられなかった。
その悩みを、また独房の中で繰り返したのである。

元来が、科学、数学の研究に興味を持っていた私としては、理論的に納得できないことは、とうてい信ずることはできなかった。
そこで、私は、ひたすらに法華経と日蓮大聖人の御書を拝読した。
そして、法華経の不思議な句に出会い、これを身をもって読み切りたいと念願して、大聖人の教えのままにお題目を唱え抜いていた。

唱題の数が二百万べんになんなんとするときに、私はひじょうに不思議なことに突き当たり、
いまだかって、はかり知りえなかった境地が眼前に展開した。
よろこびにうちふるえつつ、一人独房のなかに立って、三世十方の仏、菩薩、一切の衆生にむかって、かく、叫んだのである。

おくるること五年にして惑わず、先立つこと五年にして天命を知りたり。

かかる体験から、私はいま、法華経の生命観に立って、生命の本質について述べたいと思うのである。