投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール 投稿日:2017年 5月21日(日)11時12分17秒   通報 編集済
私は牧口会長の死を知らなかった。

昭和十八年の秋、警視庁で別れを告げたきり、たがいに三畳一間の独房に別れ別れの生活であったからである。
二十歳の年より師弟の縁を結び、親子もすぎた深い中である。

毎日、独房のなかで、
「私はまだ若い。先生は七十五歳でいらせられる。どうか、罪は私一人に集まって、先生は一日も早く帰られますように」
と大御本尊に祈ったのである。

牧口先生の先業(せんごう)の法華経誹謗(ひぼう)の罪は深く、仏勅のほどは厳しかったのでありましょう。
昭和二十年一月八日、投獄以来一年有半に、「牧口は死んだよ」と、ただ一声を聞いたののであった。
独房へ帰った私は、ただ涙に泣きぬれたのであった。

ちょうど、牧口先生の亡くなったころ、私は二百万ベンの題目も近くなって、不可思議の境涯を、御本仏の慈悲によって体得したのであった。
その後、取調べと唱題と、読めなかった法華経が読めるようになった法悦(ほうえつ)とで毎日暮らしたのであった。

その取調べに対して、同志が、みな退転しつつあることを知ったのであった。歯をかみしめるような情けなさ。
心のなかからこみ上げてくる大御本尊のありがたさ。私は一生の命を御仏に捧げる決意をしたのであった。
敗戦末期の様相は牢獄のなかまでひびいてくる。

私は、ただ大御本尊様を拝んで聞こえねど聞こえねばならぬ生命の力を知ったがゆえに、
二千べんの唱題の後には、各々に百ベンの題目を回向しつつ、叫んだのである。

「大御本尊様、私と妻と子の命を納受したまえ。妻や子よ、なんじらは国外の兵の銃剣に倒れるかもしれない。
国外の兵に屈辱されるかもしれない。しかし、妙法の信者戸田城聖の妻として、またこと名のり、縁ある者として、
霊鷲山会に詣でて、大聖人にお目通りせよ。必ず厚くおもてなしをうけるであろう」

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