投稿者:虹と創価家族 投稿日:2017年 4月19日(水)09時11分46秒   通報
「さんふらわあ7」号。
この言葉を聞いただけで涙する多宝会の方もいらっしゃるのではないでしょうか。
池田先生と奥様の心に永遠に残り続ける、真実の弟子のエピソード。涙無くしては読めない内容です。
新・人間革命に正しく残すべき創価学会の歴史です。

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◆荒海を越えて四国の友も来た
一、今年は、聖教新聞の創刊55周年に当たっている。
神奈川・静岡の同志も、また四国の同志も、いつも聖教新聞の拡大に健闘してくださっており、感謝に堪(た)えない。
つい先日の聖教新聞の「声」の欄(10日付)に、あまりにも懐かしく、あまりにもうれしい思い出が綴られていた。
それは、昭和55年(1980年)1月14日、四国の約1000人の同志が、あの「さんふらわあ7」号で、冬の荒海(あらうみ)を越え、ここ神奈川文化会館に来てくださった歴史である。
あれから満26年。四国の友は、あの日あの時を原点として、人生の試練を乗り越え、師弟の誓いを原動力に、広宣流布の拡大を成し遂(と)げてこられた。そのことが、感動的に記されていた。
この「声」を読まれた方々からも、早速、多くの反響が寄せられている。
あの年は、私の会長辞任の翌年(よくねん)であった。1月13日の午後1時すぎ、神奈川文化会館で執務(しつむ)する私のもとに、第1報が入った。香川、高知、愛媛、徳島の四国全県から、勇んで集った約1000人の同志が、高松港を出航(しゅっこう)したとの知らせである。目指すは、ここ神奈川文化会館の眼前に広がる横浜港。船は、白亜(はくあ)の客船「さんふらわあ7」号である。
私は、航海(こうかい)の無事安全を、妻とともに真剣に祈った。一人も船酔いすることなく、元気で到着されるようにと、題目を送り続けた。出発したその日、横浜は雪の舞う寒い日であった。東海上(ひがしかいじょう)には低気圧があり、海上は荒れることが予想された。学会本部からは「念のため中止にしてはどうか」という連絡も入ったという。 しかし、もう出航直前だった。合図のドラが鳴っていた。〝出航したあとは、すべて船長の判断に任す〟と決め、旅が始まったのである。

◆〝船上幹部会〟で
一、〝船上幹部会〟では、意気軒高(いきけんこう)に語り合われていた。
──本来ならば、池田先生に指揮を執っていただいて、本年の学会創立50周年を盛大に祝賀すべきである。牧口先生、戸田先生、そして池田先生という三代の会長が築いてくださった創価学会ではないか。しかし、今、先生に、自由に動いていただくことはできない。四国にお迎えすることもできない。それならば、私たち四国が、全国に先駆(さきが)けて、先生のもとへ馳(は)せ参じて、創立50周年のお祝いを申し上げようではないか。先生がおられるところが、広宣流布の本陣(ほんじん)だ。最前線であるのだ──と。
のちに、手書きで書き留められた、その船内の克明(こくめい)な記録を、私は拝見し、心で泣いた。
船には、ドクター部や白樺(しらかば)(女性看護者のメンバー)の方々も、勇んで同行され、同志の健康を見守ってくださっていた。創価班や白蓮(びゃくれん)グループをはじめ、志願の男女青年部の、はつらつたる献身も光っていた。船内で皆が楽しく過ごせるようにと、私は、〝寅さん〟の映画(「男はつらいよ」)の手配も、事前に、そっとお願いしておいた。
ありがたいことに、波涛会(はとうかい=海外航路に従事する壮年・男子部のグループ)の方々も、太平洋岸の要所要所の岬(みさき)に待機して、変化の激しい波の様子を、逐次(ちくじ)、報告する熊勢まで取ってくださっていた。四国で留守を守ってくださる同志たちも、皆、たえまなく唱題を続け、無事故・大成功を祈っておられた。そこには、どんなに嫉妬に狂った坊主らが壊そうとしても、絶対に壊せない「異体同心」の金剛(こんごう)の団結が輝いていたのである。

◆音楽隊と共に花束で歓迎
一、波涛を越えて、四国の友が、横浜港の大桟橋(おおさんばし)に到着したのは、翌1月14日の午後1時前であった。
前日とうってかわって、この日は穏やかな陽気となった。
大聖人は、「当(まさ)に起(た)って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如(ごと)くすべし」という法華経(ほけきょう)の一文を「最上第一の相伝」とまで仰(おお)せであられる。私は大桟橋に立って、花束を抱えて、遠来(えんらい)の同志をお迎えした。
この私と同じ心で、神奈川県中から集まり、真心の歓迎をしてくださった友の顔(かんばせ)も、私は今もって、忘れることができない。わが音楽隊も、勇壮(ゆうそう)な学会歌の演奏で盛大に出迎えてくれた。
そのあと、午後1時半から、四国・神奈川交流幹部会が、神奈川文化会館で劇的に開かれた。
はるばると勇み来(きた)った四国の同志も、誇り高く偉大であった。その同志を勇み迎えた神奈川の同志も、また誇り高く偉大であった。
私は、ピアノで「大楠公(だいなんこう)」「熱原(あつはら)の三烈士(さんれつし)」など数曲を奏(かな)で、贈らせていただいた。
心と心の交流が、幾重(いくえ)にも深く、また強く結ばれた。凝結(ぎょうけつ)した黄金の時が流れた。
そして、その日の午後7時、四国の同志は、横浜港を出航して、帰途(きと)につかれたのである。
私は、船が見えなくなるまで、神奈川文化会館の窓から、妻とともに懐中電灯を振り続けて、お見送りした。深夜11時半ころと翌朝の9時、私は、船に直接、電話を入れて様子をうかがった。来られなかった方々への伝言も託(たく)した。
船がついてからも、高知県の方々など、自宅へ戻るまで、さらに長い道のりが続く。妻も、皆さまが全員、無事に帰宅されるまではと、祈り続けていた。
なお、この時の船長が語ったというお話も、のちにうかがった。
「初めて、創価学会の方を乗せました。なんというか、言葉では言い表せませんが、本当に爽(さわ)やかな気分です。
この人たちを、一人も船酔いさせてはいけないと思い、慎重に舵(かじ)をとりました」
当時の宗門に遠慮(えんりょ)した聖教新聞の紙面では、「交流幹部会」自体は報じられているものの、四国の同志と私との出会いのことは、一行も記(しる)されていない。
しかし、だれ人も冒(おか)すことのできない、いな永遠に冒すことのできない、荘厳な師弟の劇が厳然と刻まれていたのである。
その後、5月にも、徳島の約1000人の同志、そして愛媛の約1000人の同志が、それぞれ船で、神奈川までお越しくださった。
2回とも、私は心から歓迎させていただき、忘れ得ぬ歴史となった。
のちに、私はこの方々を、「三千(さんぜん)太平洋グループ」と命名させていただいた。
学会が一番、大変なときに、私とともに、一番、深く、一番、尊い歴史をつくってくださったのは、四国の友であった。そしてまた、東海道の皆さまであった。