投稿者:一人のSGI 投稿日:2017年 4月 3日(月)06時51分1秒   通報 編集済
以前、赤胴様が投稿されていたかと思いますが、
以下は御義口伝の
「如我等無異 にょがとうむい」(我が如く等しくして異なること無からしめん)
「皆共至宝処 かいぐしほうしょ」(皆、共に、宝処に至る)
の箇所の講義です。
「師弟不二」という言葉は使われていませんが、その心は、日寛上人の上記の御文と同じです。

御義口伝
化城喩品七箇の大事
第七皆共至宝処の事 p734

御義口伝に云く皆とは十界なり共とは如我等無異なり至とは極果の住処なり宝処とは霊山なり、日蓮等の類い
南無妙法蓮華経と唱え奉る者は一同に皆共至宝処なり、共の一字は日蓮に共する時は宝処に至る可し不共なら
ば阿鼻大城に堕つ可し云云。
――――――
御義口伝には、次のように仰せである。
「皆共に宝処に至る」の「皆」とは、地獄より仏界にいたるすべてをいうのである。「共」とは、「如我等無異」、
方便品の「我が如く等しくして異ること無からしめんと欲しき」、つまり一切衆生を仏と同じ境涯に入らしめると
いうことである。
「至」とは、極果の住処へ至る。すなわち、最高の幸福境涯に至るということである。「宝処」とは霊鷲山の
ことである。大御本尊のいますところであり、また、最高の幸福境涯を意味している。
今、大御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱え奉る日蓮大聖人の門下は、一同に皆共至宝処、
すなわち、成仏することができるのである。
とくに、「共」の一字は、日蓮大聖人と共にいる、大聖人を信ずるときは、成仏することができる。
また日蓮大聖人と共でない、すなわち、離れ、不信の念をおこすならば、阿鼻地獄におちる、不幸のドン底に
おちるということを示しているのである。
如我等無異
方便品に「我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき」とあり、一切衆生と仏と同じ境涯に
入らしめるということである。観心本尊抄にはこの経文を引いて「『我が如く等くして異なる事無し
我が昔の所願の如き今は已に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむ』、妙覚の釈尊は我等が血肉なり
因果の功徳は骨髄に非ずや」(0264-17)とあり、仏の大慈悲を示されている。

以上 引用終わり

私がここで強調したかった事は、この教義上の師弟不二を忘れて、化義である組織や代々会長のみへの師弟不二だけに終始していないかという事です。
一念がどこを基盤としているかはとても大切です。
その一念が仏界の智慧である「南無妙法蓮華経」、末法の御本仏、大聖人をまず指向しているべきでしょう。
そこに個人の境涯革命があり、ひいてはそこから組織の成長もあるのであり、そこにこそ三代会長への報恩も意味あることになると思うからです。