投稿者:一人のSGI 投稿日:2017年 4月 3日(月)06時47分44秒   通報 編集済
私の拙考を書かせていただきます。

「「我が如く等しく」の下は自受用に約して師弟不二を示し、次に「宝塔品」の下は無作三身に約して親子一体を示し、
三に「寿量品」の下は久遠元初に約して君臣合体を示す云云。」の全体は、仏の、主(君臣合体)、師(師弟不二)、親(親子一体)
の三徳を示しているものだと思われます。

その中から特に、「師弟不二」の説明箇所を抜き出しました。
それが、その以下の御文です。

端的な説明箇所として

<師とは>

「自受用身に約して師弟不二を示す」

「正しくこれ久遠元初の所願なり。故に「如我昔所願」というなり。
この久遠元初の自受用身、末法に出現してこの本尊を授与す。」

ー 師とはこの本尊を授与する人である、久遠元初の自受用身の当体、南無妙法蓮華経如来であり、
それを体現した、大聖人である。総ての人を仏にしたいという久遠元初の所願を持つ人である。

<弟子とは>

この本尊を受持する衆生は皆久遠元初の仏道に入る、故に「化一切衆生、皆令入仏道」というなり。即に久遠元初の仏道に入る
我等衆生の凡身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身なり。

ー 弟子も又、この本尊を受持する我等衆生の凡身の当体、すなわち、久遠元初の自受用身である。

<師弟不二とは>

「自受用身の当体、全くこれ我等衆生なり。故に「妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや」というなり。
自受用はこれ師、我等はこれ弟子、既に「如我等無異」なり。豈(あに)師弟不二に非ずや。」

ー よって、自受用は師、我等は弟子、既に「如我等無異」なり。師弟不二でなくして何であろううか。

これは十界互具の原理で、簡単に言えば、全ての生命境涯には、既に「仏界」の境涯が内包されている、という事でしょう。
ですから、私達の生命の深い部分では、「師弟不二」は、因(弟子)果(師)倶時として既になされている事になります。

しかし、それでも、ただ「既になされている」だけでとどまっていれば、これは理論だけで終わります。
現実の生活の上に、その価値が顕現できなければ、砂上の楼閣です。
そこで、大聖人は、私達の為に御本尊を顕して下さいました。
大聖人の仏の生命を体現した、「事の一念三千の御本尊」への帰命が、現実の仏界湧現の触発になります。
御本尊に題目をあげて現実の生活の中で正しい信行学を行い、そして、他の人をもこの「師弟不二」に導いていくことが、
仏の慈悲である「如我等無異(我が如く等くして異なる事無からしめん)」の心と共振し、
凡夫の身(弟子)に、仏(師)の心が「念念に起こる」のだと思います。