投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2017年 3月26日(日)09時06分2秒   通報
池田先生は女子部に向けて

「流されやすく、弱い自分の境涯を決然と乗り越え、強く、生きがいのある自分になるのだ」
(池田大作全集一三七巻「女子部の躍進を喜ぶ」)

と語り

「自分自身の一生の土台を築きゆくことだ。
この青春の羅針盤こそ『教学』にほかならない」(同)と述べています。

そして

「『教学を学びぬいていくことである』と恩師は叫んだ。もしも、教学がなければ、
正邪善悪が見えない。最高の人生の大道、正義の師弟の道がわからない。

それでは何が幸福なのかわからない。結局、幸福になれない。
正しい仏法の眼を磨く修業が教学である。

だからこそ戸田先生は、慈父の如く『女子部は教学で立て!』と
繰り返し繰り返し指導していかれた」(同)

と訴えました。

では、仏教の経典に描かれている「女性の地位」というものはどうだったのでしょうか。

今度はそれを見ていきたいと思います。

大聖人は「法華経以外の経では、すべて(男女)成仏することはできないうえ、
とりわけ女人成仏については、法華経以外はまったく許されていない。

むしろ爾前教の諸経で女人は、はなはだしく嫌われている(趣意)」(御書四七二頁)

と述べています。たとえば、華厳経には

「女人は地獄の使いであり、仏になる種子を断つ。
外面は菩薩に似ているが、内心は夜叉のようである(趣意)」(同頁)。

また、銀色女経には

「三世の諸仏の眼は大地に落ちることがあっても、
諸々の女人は永久に成仏することはない(趣意)」(同頁)などです。

さらに大聖人は

「女人は五障三従の罪が深いといわれる。それについては
内典には五障を明かし、外典には三従を教えている」(同頁)と述べています。

この「五障三従の罪」を簡単に説明すると、五障とは五つの障害という意味で

「一には梵天王と作ることはできない。二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身」

の五つです。

つまり、女性はどんなに努力し、頑張ったとしても五つにはなれないということです。

現代に置き換えれば、政治的、社会的な分野で指導的な立場やトップリーダーにはなれないということに通じます。

ちなみに「魔王」になれないというのは、魔といえども
大きな勢力を持つことから、そのような勢力を持てないという意味です。

これが内典(仏法)の「女人不成仏」の象徴とされてきました。