投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2017年 3月 1日(水)18時22分12秒   通報
【第18回】日中友好の先覚者高碕達之助氏

2007-2-25

いちはやく周恩来総理に進言
“創価学会を重視すべきです”

信濃町・高碕邸東京・信濃町の駅から、学会本部へ向かう道。初めの十字路を右
に曲がってしばらく行くと、その右手に広壮な門構えの屋敷が見えた。そこが高
碕達之助先生の御自宅であった。通産大臣。経済企画庁長官。多忙な日々の中で、
時に学会の青年部員の姿を見かけた。信濃町駅から本部へ、青年たちが勢いよく
飛び出していく。凛々しい。はつらつとしている。そんな様子を、よく目にして
おられたようだ。日中友好の先駆者であられた。周恩来総理の信任も厚い。日本
の情報を求める総理に、胸の内を明かされた。

「総理。私は東京の信濃町というところに住んでいるんです。同じ町内に、創価
学会という元気な庶民の団体があります……」刮目すべき勢いがある。重視すべ
きであると進言した。1960年代初頭、北京でのことである。周総理と私の間
に、運命の糸がつながった瞬間でもあった。思えば、これも戸田先生のご遺徳あ
ってのことである。1953年(昭和28年)11月、学会本部が、それまでの
西神田から信濃町に移転した。以来、恩師は、つとめて近隣の方々と懇意にされ
た。明治からの屋敷町である信濃町には、犬養毅邸や、池田勇人総理をはじめ政
財界の名だたる名士の邸宅が多かった。時には自ら町内をあいさつに歩かれてい
た。

とはいえ、豪放磊落の恩師であられる。相手に真意が伝わらぬこともあった。そ
のたび間に入って取りなすのが私の役目であった。師と二人して、近隣の友好開
拓に歩いた日々。高碕先生も学会を深く理解してくださった一人である。広宣流
布といっても、どこか遠くにあるのではない。まず、目の前の一人である。一人
を味方にしていく。心を開いていく。それが、いざというとき、百万の援軍にな
る。恩師が身をもって教えてくださった一焦点である。恩師と常光会館高碕先生
は、いわゆる党人政治家でも、官僚でもない。

乞われて戦後に政界入りするまで、在野の経済人だった。明治人の気骨堅固な、
立志伝中の人物である。水産技師からたたき上げ、製缶会社「東洋製罐」を起こ
した。目先の利益を追うだけでなく、世のため人のために貢献せよと社是に掲げ
た。経済人として「経世済民」(世を治め、民を救う)の本義を追求された戸田
先生の理念と通じる。終戦直後、大混乱の満州(現・中国東北部)では、満州重
工業開発の総裁として、百万とも言われる残留邦人の生命を守っている。武装し
たソ連兵に向かって、我が身を盾に「俺の命と引き替えにしろ」と直談判した。

「胸にピストルを向けられようとも、広布のためには一歩も引かぬ」。恩師の剛
直をほうふつさせる。これも不思議なご縁であろうか。今、高碕邸の跡には、学
会の常光会館がある。その庭園に私は、戸田先生の胸像を建立した。高碕先生ゆ
かりの庭で、恩師は全国から来館される、わが尊き同志を莞爾として見守ってお
られる。先覚者の外交戦高碕先生には大きな悲願があった。中国との経済交流の
再開である。のち1962年(昭和37年)になって、私も懇意にさせていただ
いた廖承志氏(中日友好協会初代会長)との間に戦後初めての日中間貿易の道を
開いた。

廖・高碕の頭文字を取って「LT貿易」と名付けられたことは有名である。しか
し当時、その信念を理解するものは日本では皆無に等しかった。中国は国際社会
で孤立していた。敵視政策を強めるアメリカに日本も従っていた。だからこそ、
この人物を世に知らしめなければならない。ご無礼とは思ったが、教えを乞うた
め、学生部員の代表を高碕先生のご自宅に伺わせたのは、62年の秋である。若
い優秀な“学生記者”のインタビューは「第三文明」の巻頭に掲載させていただ
いた。具眼の士である。

世界中が中国を敵視しているとき、まったく違う観点から評価していた。青年が
判断の尺度だった。「日本の青年よりずっと真面目です。政治や社会に対する意
識が高い。あのまま、ずっといったら、立派な国になる」あらゆる組織、団体が
伸びていく急所である。同じ尺度で学会を見ておられた。周総理会見の序曲高碕
先生は、周総理の人格に魅了されていた。高碕先生が日本の政府代表として参加
した、インドネシアのバンドン会議(1955年)。アジア・アフリカ諸国の連
帯と平和友好を目指すものであったが、各国の足並みはバラバラだった。

しかし、周総理のあざやかな外交手腕で、紛糾は次第に収拾されていった。その
会議の合間である。「高碕さん、私はあなたのことをよく存じ上げています。お
元気ですか」終戦直後、中国・八路軍の将校として、在留邦人を命がけで守る高
碕先生を見ていたのである。満州での孤軍奮闘を高く評価し「今の中国を見に来
ていただけないか」と訪中を誘った。政界きっての中国通である松村謙三先生も、
昭和30年代に、日中を結ぶ人物として、総理に高碕先生の名を挙げていた。

政治の「松村」。経済の「高碕」。この両輪で日中友好は動き始める。
周総理から、経済人として忌憚のない意見を求められると、高碕先生は歯に衣を
着せない。ある時など、急激な工業化で農業が衰退し、いずれ食糧問題が起きる
と直言した。中国の基本政策をゆるがす酷評である。総理も驚いた。「あんなに、
こっぴどくやられたことはない」。しかし後には「大変に親切な忠告だった」と
感謝しておられたようだ。高碕先生が学会の存在を伝えたのは、そんな信頼関係
あってのことである。さっそく総理は調査を命じた。言葉はきついが、ウソがな
い。高碕先生の言だからこそ、信ずるに値すると判断されたに違いない。

国交正常化を提言

高碕先生と直接にお会いしたのは、1963年(昭和38年)の秋9月である。
現在の学会本部が落成し、お祝いに「富士」の絵画を携え、駆けつけてくださっ
た。先生は78歳。私は35歳。息子のような年齢の私である。駆け寄って、そ
の手を強く握りしめた。ここ信濃町で、静かに歴史が動いていることを知ってい
た。高碕邸は、中国側の事実上の“出張所”の役割を果たしていた。後の中日友
好協会会長・孫平化氏をはじめ、やがて外交実務の要路に立っていく方々が詰め
ていた。高碕先生は、その方々にも、聖教新聞など、学会の資料をしっかり読む
ように勧めてくださったようだ。
そして私に中国訪問、周総理との会見を強く強く勧めてくださった。

お会いしたとき、私たちに通途の社交儀礼など必要なかった。すでに心中は合致
していた。戸田先生もアジアと世界の平和構築の観点から「中国との交流の再開」
を早くから模索されていた。結論は出ている。日中の国交正常化は何をおいても
必要だ。では具体的に、どうするのか。どう行動するのか。そこから論は始まっ
た。ふと心に浮かんだ。高碕先生と恩師の共通の願いであった国交正常化につい
て、近い将来、世に問うべき時が来るであろう。批判も浴びるだろう。しかし、
座して待っていては開けない。時はつくるしかない。

思ったよりお痩せになっているなと感じたが、実はこの時、ガンにむしばまれて
おられたことを後になって知った。訃報が届いたのは、半年後のことだった。周
総理は深く落胆した。「このような人物は二度と現れまい」と悔やまれた。私は、
尊敬する戦友を失った思いで、冥福を強く祈った。そして、だからこそ、私の胸
には深く期するものがあった。

一期一会の出会いから5年後の1968年(昭和43年)9月8日。私は両国・
日大講堂の大鉄傘の下にいた。2万人の青年が参加した学生部の大総会。手には、
日中国交正常化の提言をまとめぬいた、厚い原稿の束を持っていた。病床で意識
が薄れゆくさなかにも、とぎれとぎれに「日中……」と絞り出されていた高碕先
生。その面影を胸に、私は演壇に向かった。

プロフィール
たかさき・たつのすけ(1885~1964年)
大阪・高槻市生まれ。水産講習所(現・東京海洋大学)を卒業後、メキシコに渡
り缶詰工場を指導。アメリカ視察を経て1917年に東洋製罐を設立。42年、
満州重工業開発総裁に就任。終戦直後に中国東北部の日本人会会長として抑留日
本人の引き揚げに尽力。中国側の要請で現地の産業復興にも協力した。帰国後は
電源開発初代総裁を経て、鳩山内閣に入閣。55年から衆議院議員に。62年、
中日友好協会の廖承志会長と「日中総合貿易に関する覚書」を調印し、国交回復
前の日中貿易の基礎を築いた。フィリピンとの賠償協定、国交正常化や日ソ漁業
交渉など外交分野で活躍。その人柄と国際感覚で、周恩来、フルシチョフら共産
圏の指導者とも信頼関係を築いた。

北京市内で周恩来総理と会見(1974年12月)

名誉会長が日中国交正常化を提言した、第11回学生部総会(1968年9月、
東京・両国の日大講堂で)