投稿者:臥子龍メール 投稿日:2017年 2月27日(月)14時33分2秒   通報 編集済
戸田先生、そしてそれをわが心とする池田先生の弟子を思う心がよく書き出されています。
忘恩、裏切り、そして善良な人々を騙し、欺き堕落を重ねる自称直弟子の会長。
それを取り持つよいしょの執行部、それに阿る本部職員、そして地方幹部。
残念な人達だね。
いや、人の仮面をつけた拝金亡者の鬼か。

<本文>
戸田城聖は、一日の大講堂落慶法要以来、日ごとに衰弱の度を増していた。彼は、理境坊の二階で、体を布団の上に横たえながら、伸一を傍らに置き、総登山の指揮を執っていた。

戸田は、体を動かすことはままならなかったが、頭脳はどこまでも明晰であった。階下の運営本部から次つぎともたらされる報告を聞いては、的確な指示を与えた。

また、理事室をはじめ幹部たちが、挨拶にやってくると「今のうちに何でも聞いておけ」といいながら、一つ一つの質問に、全魂をこめて指導するのであった。

ある時、報告にやってきた参謀の滝本欣也が、戸田にたずねた。

「先生が一日の落慶法要でいわれましたように、御書も発刊され、大講堂も建立された今、学会は身延をしのぎ、もはや、敵はなくなったと思います。これからの学会は、何を敵として進んでいけばよいのでしょうか」

戸田は、横になっていたが、質問を聞くと、布団の上に起き上がった。

そして、滝本の顔を見て、言下に答えた。

「敵は内部だよ」

実は、そのころ、学会員同士の共同事業の失敗や金銭貸借から、怨嫉が起こり、それが組織での人間関係に亀裂をもたらすという、由々しき事態が生じていた。

また、一部に、学会の組織を利用して、保険の勧誘や商品の販売を行う者があり、いたく戸田を悩ませていた。

ことに、それを行った者が幹部である場合には、会員は無下に断ることもできず、不本意ながらも、勧めに応じてしまうというケースも、少なくなかった。

戸田は、広宣流布の組織である学会が、個人の利害によって攪乱されることを深く憂慮し、それらの行為を、「信心利用」「組織利用」であるとして、厳しく戒め、固く禁じていた。

学会の組織は、広宣流布という聖業の成就のための組織である。

戸田が会長に就任してから七年に満たない短日月のうちに、学会がこれだけ大きな飛躍を遂げたのも、どこまでも清浄に、いっさいの不純を排して、厳格な運営が行われ、広布の聖業に向かって邁進してきたからにほかならない。

その組織が、私利や私欲によって利用されれば、学会の崇高な目的は汚され、異体を同心とする同志の団結も破壊され、広宣流布は根底から蝕まれることになるだろう。

戸田城聖は、まさに、佐渡御書に仰せの、「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食」との御聖訓が、現実となりつつあることを、強く実感せざるをえなかった。

学会は、信仰によって結ばれ、相互の信頼を基調とした善意の人の輪である。同志というだけで人を信じもし、安心もする。困っている人にはなんらかの手を差し延べてあげようとする思いも強い。

それだけに、悪意の人に、利用されかねない面があることも事実であった。いわば魔は、会員の信頼と善意に、巧妙に付け入ってきていたといってよい。

戸田は、それを防ぐために信仰のうえで知り合った同志間の共同事業や金銭貸借、また、組織を利用しての商売を厳禁し、学会の鉄則としたのである。

そして、これを破り、会員に迷惑をかけた幹部は、解任も辞さぬ決意をしていた。

彼は、邪悪の付け入る余地を、微塵も与えまいとしていたのである。

しかし、自己の利益のために学会の組織を利用しようとする者は、今後、学会が大きくなればなるほど、さらに、出てくるであろうことを、彼は予見していた。

それゆえに、戸田は、今後の学会の敵は何かという滝本欣也の質問に、即座に「敵は内部だ」と答えたのである。

しかし、それは同時に、滝本自身に対する、戸田の警鐘でもあった。

滝本をよく知る戸田は、彼の生き方に対して、人知れず心を痛めてきたのである。

滝本欣也は、福岡県大牟田の出身である。千葉の陸軍戦車学校で終戦を迎え、戦後、神奈川で製塩業に従事していたが、昭和二十一年の十月に入信している。

その後、学会員の紹介で牧口時代からの会員である、蒲田の酒田たけ一家が営む鉄工所に住み込みで働くようになり、やがて、酒田の娘と結婚した。

それから間もなく、鉄工所を切り盛りしていた酒田の息子の義一の悩みが始まった。義弟となった滝本が、満足に仕事をしないのである。

滝本は、二十六年に男子部が結成され部隊長制が敷かれると、第四部隊長になった。すると、彼は、ますます仕事の手を抜くようになった。

滝本欣也は、義兄にあたる酒田義一をいたく悩ませた。

勤務時間中に、信心指導や打ち合わせと称しては、仕事を抜けてしまうのである。

また、遅刻が多く、納期に間に合わせようと、皆が深夜まで仕事をしていても、夕刻になると学会の活動があるからといって、さっさと出ていってしまう。

青年部の幹部である滝本の行動は、他の学会員の従業員にも波及していった。朝は前夜の活動を理由に遅刻してくる者が増え、残業はにべもなく断るのである。

さらに、滝本は、昼休みに学会員の従業員を集め、大学者ぶって、御書の講義をはじめた。さして広くもない町工場のことである。一般の従業員は、休憩する場所がなくなってしまった。

ついに、鉄工所内で、学会員に対して、非難の声が出はじめた。

鉄工所といっても、十人ほどの従業員であり、皆が力をあわせて懸命に働き、なんとか、もりたててきた会社である。それだけに、社内に生じた不協和音は、会社の存亡にかかわる重大問題であった。

それまで酒田は、滝本を努めて理解しようとしてきた。仕事の手抜きも、信心への熱心さのあまりであるととらえて、堪えにこらえてきた。

しかし、それも、もう限界に達していた。

・・このままでは会社が危ない。滝本のやっていることは、戸田先生の指導とは正反対だ。あれは絶対に幹部のすることではない!

酒田は、この数年間、滝本と身近に接するなかで、会合などで見せる幹部の顔とはまったく裏腹な、彼の実像を見せつけられてきた。

酒田が、滝本に対して、最初に大きな不信をいだいたのは、戸田城聖の経営していた東光建設信用組合が不況の波に洗われ、頓挫をきたし、営業停止となった昭和二十五年ごろのことであった。

そのとき戸田は、自分の事業の破綻から、会員に迷惑をかけるようなことがあってはならないと、学会の理事長を退き、事業の再建のために必死に戦っていた。いわば、戸田にとっては、戦後の最大の苦境の時代であった。

心ある学会員は、戸田の再起を祈り、彼のために何か応援し、せめてもの恩返しをしたいと願っていた。戸田が事業で得た財の一切を学会のためになげうち、負担を会員にかけまいとしてきたことをよく知っていたからである。

だが、そのとき、滝本は酒田に、傲然として、こう言い放った。

「戸田先生の事業の問題は、折伏の邪魔になるんだよ」

吐き捨てるような言葉であった。酒田は愕然とした。

日ごろ、口を開けば「戸田先生、戸田先生」と語り、自らが第一の弟子であるかのように吹聴していた滝本から、そんな言葉を聞くとは、夢にも思わなかったからである。

酒田義一は、初めて、滝本という男の本性を垣間見た思いがした。

そのころ、戸田城聖のもとにあって、事業の活路を開くために、時に喀血さえしながら、病身に鞭打ち、壮絶なまでの戦いを展開していたのが、山本伸一であった。

伸一は、やがて、戸田が会長に就任してからも、陰で戸田の事業のいっさいを支えて仕事に全精力を注ぎ、孤軍奮闘する日がつづいていた。

滝本欣也が第四部隊長になった時、伸一は、滝本の部隊の班長となった。

ある日、酒田の家で、滝本の部隊の班長会が行われた。伸一は、この日も、やむなく仕事のために、欠席せざるをえなかった。

滝本欣也は、伸一が欠席していることを知ると、冷たく言うのであった。

「山本は退転だよ。また、欠席だ。仕事という魔に負けているんだ!」

当時、酒田義一は、滝本とは、別の部隊に所属していたが、第四部隊の青年たちからその話を聞くと、憤りが込みあげてくるのを覚えた。

酒田は、いま伸一がどれほど苦労して、戸田の事業のために奔走しているかをよく知っていた。それは、滝本も知っているはずである。

自分は、まともに仕事もせずに、幹部という立場をカサに着て、平然と、伸一を

「退転」といってはばからぬ滝本に、酒田は、人間として異常なものを感じた。

この時に、酒田のいだいた不信感は、滝本のその後の生活態度を見るにつけ、ますます深まっていった。

酒田は、このさき、滝本をどうすればよいかと考えあぐねた末に、暗澹たる思いで戸田城聖を訪ねたのである。

酒田義一は、義弟であり、幹部である滝本欣也の問題を口にするのは、身を切られるように辛かった。

しかし、すべてをつつみ隠さず、戸田城聖に話した。

酒田の話を聴くと、戸田は口惜しそうにいった。

「やはり、そうか。困ったものだな……」

戸田は、以前から、滝本の壮士気取りの生き方を憂慮しつづけてきた。

他宗の寺や本部などに押しかけ、法論を挑むといった派手な活動には意欲を燃やすが、陰で着実に努力を重ねることができない滝本のだらしなさを、見抜いていたからである。

「君の話はよくわかった。滝本の行為は、畜生の命さながらだ。信心を利用する許しがたい行為だ。

しかし、会社としてどうするかは、君が、勇気をもって決断していく問題だ。今後の具体的な対処については、泉田君とよく相談しなさい」

戸田は、理事の泉田弘に、酒田の相談にのって、対策を協議するように命じた。

酒田が帰ったあと、戸田は深い憂いに沈んだ。

戸田はこれまで、功名心の強い滝本を、いくたびとなく厳しく諌めてもきた。しかし、厳しく言えばいうほど、心が戸田から離れていくのを感じていた。

以前から懸念されてきたこととはいえ、眼をかけてきた青年部の幹部の醜態を聞くのは、戸田にとっても、辛く、悲しいことであった。

戸田城聖は、このままいけば、滝本欣也は、常に同志を食いものにする、師子身中の虫になっていくにちがいないと思った。

・・滝本は、酒田義一の義弟とはいえ、幹部として、信心を利用し、酒田一家に迷惑をかけたことは、解任にもあたいする不祥事である。

戸田は、そう考えたが、すぐに、思いとどまらざるをえなかった。解任すれば、滝本は怨嫉し、退転、反逆していくであろうことが、眼に見えていたからである。

それを思うと、可哀相でならなかった。戸田には、滝本の心理が手に取るようにわかった。

炭鉱の街に生まれ、十四歳で父を亡くし、貧しい少年時代を送り、苦労の辛酸をなめて育った滝本にとって、学会は、自分を花開かせることができる、唯一の世界であったにちがいない。

彼は、その学会が、善意の人の世界であるのをいいことに、有頂天になり、わがまま放題になって、ついには周囲の人を、自分のために利用する心が芽生えたのであろう。戸田には、滝本があさましくもあり、哀れにも思えた。

彼は、不遇な生い立ちを背負い、誤り多き、未熟な青年であればあるほど、なんとしても、社会的にも立派な、ひとかどの人物に育てあげたかった。

戸田はそれを、自らの責任として課していたのである。

・・腐っても私の弟子であることに変わりはない。私が自分の手で、あの心根を断って、忍耐強く、育てあげる以外にないだろう。

彼の心は、どこまでも広く温かかった。

酒田義一は、泉田弘の指導を受け、ついに、義弟の滝本欣也を解雇することにした。

滝本は、「俺をクビにしたから、酒田の会社は潰れた、といわれないようにすることだな」と、捨て台詞を残して辞めていったが、まだしばらくは酒田の家に住んでいた。

戸田城聖は、それから、しばしば滝本欣也を抱えこむようにしながら、折にふれて厳しく指導していった。

滝本が、その心根を入れ替え、まことの人材として育つことを願っての、粘り強い、厳愛の指導であった。

滝本は、戸田の指導によって、変わっていったように見えた。

そして、昭和三十年の区議会議員選挙に、戸田は、彼を候補者として推薦した。

滝本は、同志の献身的な支援活動によって、品川の区議会議員となった。

戸田は、滝本が当選したとき、山本伸一にいった。

「滝本はいつ退転してもおかしくない男だ。だが、そんな男だからこそ、まともな日の当たる人生行路を歩かせてやりたいと思って、私は滝本を育ててきたんだよ。このまままっすぐに伸びてくれればよいのだがな。

伸一、仏法者というのは、騙されても、騙されても、最後まで相手を信じ、包みながら、再起と更生を願って、手をつくしていく以外にないのだよ」

戸田城聖は、それから、山本伸一の顔を見すえ、語気を強めて言った。

「しかし、ひとたび、学会に牙をむき、仏子の和合を破壊しようとしてきたなら、その時は、徹底的に、相手を叩きつぶすまで戦うんだ。そうでなくては、創価学会が壊され、広宣流布が攪乱されてしまうからな。

そうなれば、みんなが不幸になってしまう。邪悪を放置しておくのは、慈悲などでは決してない。それは慈無くして詐り親しむ姿だ。悪と戦ってこそ、正義なのだよ。

広宣流布の最後の敵というのは、内にこそある。城者の裏切りが城を破るのだ。

あの五老僧を見給え。五老僧は過去の話ではない」

戸田は、未来を見通すかのように話していった。

「これから滝本たちが政界に出てゆくが、私は心配でしかたないのだ。政界というのは権力と野望と駆け引きの魑魅魍魎の世界だ。

皆、今は新しい気持ちで張り切っているが、下手をすれば、すぐに精神が毒され、私利私欲に狂ってしまう者が出ないともかぎらないだろう。

私の心を忘れぬ者は、政治革新を成し遂げ、民衆のための偉大なる政治家に育つだろうが、私利私欲に狂えば、広布を破壊する魔の働きになってしまうだろう。

政界への進出は、私にとっても、学会にとっても、大きな賭けなのだ。

私は、獅子がわが子を谷底に突き落とす思いで、弟子たちを政界に送り出そうとしているのだ」

以来、すでに三年の歳月が流れようとしている。

戸田城聖は、今、理境坊の二階にあって、滝本欣也を前に、この一青年の来し方を思い起こした。そして、滝本をまじまじと見つめて、もう一度、言った。

「敵は内部だよ……」

彼は、私生活にだらしなく虚栄心の強い滝本が、最後まで、心配でならなかったにちがいない。