投稿者:一人のSGI 投稿日:2017年 2月23日(木)15時14分11秒   通報 編集済
「人をして悪道に向わしむと申すは只三悪道のみならず人天・九界を皆悪道とかけり」

人界のなかで、真実の善道は仏界以外にないということである。所詮、九界は迷いの境涯であり、理想的な人格の完成、一切を見とおした智慧の獲得にはるかに遠い。

したがって、十界のなかで、悪道を地獄・餓鬼・畜生の三悪道、修羅を加えて四悪趣と限り、他の善道とするのは、仏道哲学の立ち場から浅い見方にすぎない。また、人天までを六道輪廻の迷いの境涯とし、声聞・縁覚以上を四聖と称するのも、小乗教の低い生命観である。

声聞・縁覚・菩薩といっても、まだ煩悩を打ち破ってはいない。これらを現代的に考えると、声聞とは、仏法の導師について修行で得た喜びであり、縁覚とは、自らが仏道を修めて真実を究めたときの幸福観でもある。
また菩薩とは、仏法根本に人を助け、社会に貢献することによって得られる満足感ともいえる。

しかし、こうした声聞・縁覚・菩薩の幸福は、それ自体、まだ微弱なものであり、その基盤ももろい。
自分はただ、人の身を思って善行をしたつもりでも、世間からは、売名のためだと悪口をいわれることもあろう。
助けてあげた相手に裏切られることもあるかもしれない。幸福は一転して、失意と絶望と憤りに、変わってしまう。

このように、九界の範疇にとどまる限り、その幸福は、外部の条件によって左右される一時的な幸福であり、流動的で、千差万別に変化していくのである。したがって、そこに向かわせるものは、それ自体が悪であり、魔の所為にほかならない。

(絶対的幸福は)自己自身の完成による。したがって、外部の条件によって変えられることのない、絶対的に崩れない
幸福境涯を仏界というのである。これを明かしたのが法華経の開三顕一であり、この仏界を会得する法が本門文底の三大秘法である。

ゆえに、三大秘法の仏法を持つことを妨げ、成仏の直道を断とうとするのが、「悪道に人をつかはす獄卒」であることを知らねばならない。反対に、三大秘法の仏法を人に持たせ、成仏の直道に入らしめる人は、仏の使いである。

以上引用終わり

魔は仏性開発の機会を奪う働きです。
そして、その仏性開発とは究極的には「御本尊」とその基礎になっている一念三千の法理への信心であり、その信心の機会を奪おうとする働きとは、「御本尊」に対する不信や御本尊自体の意義を曲解して広めようとする行為そのものではないでしょうか。

三障四魔は自身の内部から起きる事はもちろんですが、以外にも組織の内部からも起きる様です。
昨今、御本尊に関しての意義、解釈さえもいろいろ起きていて、信心が不安定になる要素があちこちに見られます。

どうやって正しい信心を継続していくか、、、。
むずかしい問題ですが、ひとりひとりが真剣に思索していかなければならない時代にきているのでしょう。
大仏のグリグリ様
久しぶりの論考楽しみにしています。