投稿者:一人のSGI 投稿日:2017年 2月23日(木)14時47分28秒   通報
螺髪さん、以下同意します。

>その通りだと思います。紛らわしく、解りにくく妄説を説いて、支配しようというのが「僣聖増上慢」の特徴でした。
「僣」には、「なぞらえる、まねる」のほかに、「おごる」の意味もありました。上慢、我慢、無慚の「三失心」と同じです。<

有名な御書の御文にありますよね。魔は「紛然と」(紛らわしく)来るのです。
「行解(ぎょうげ)既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る」
三失心や煩悩、執着がそれらの魔の本性だといえるかもしれません。
具体的には、その一念は、低い三悪道などに翻弄された生命境涯から発し、他人の仏性開発の機会を奪おうとするのだと思います。

(このあとちょっとこの場を借りて続きを書かせていただきました。)
しかし、ここでちょっと意外ですが
「人をして悪道に向わしむと申すは只三悪道のみならず人天・九界を皆悪道とかけり」
ともあります。
仏界以外は九界までが全部、人を悪道に向かわしめる、、とあります。

悟りに至っていないのに悟りに至ったと思い込む二乗に潜む悪はよく知られるところですが、菩薩行にしてもこれが究極の境涯だとすると、大きな落とし穴に落ち込むこともあるという事だという事でしょう。

大聖人を貶めた良寛は、慈善事業に長けていた様で、世間では生き仏の様に言われていた様ですが、結局、一念三千の法理に則ってない修行をし、生命の真理に暗い上に、法華経の教えを貶めていた心は、その一念が仏界に根ざしてなかったと言えるのでしょう。

ちなみに大聖人があらわなければ生き仏としてあがめられ、一生を終えていただろうとも言われています。
結局は菩薩界といえども、環境に左右される相対的なはかない善で、況や、他の境涯をや、という事だと思います。

誤解の無い様に言っておきますが、高い境涯の全ても悪だという事ではなく、十界互具の原則としては、それらの境涯にも低い境涯が同時に備わっている(妙法蓮華経の五字の光明に照らされて、本来ありのままの尊形となっている仏界具足の九界とはまだ違う)ことが、やはり九界の境涯はいつでも、無明に落ち込む可能性を秘めているという事でしょう。

長いですが御書講義を添付します。
今、この時期に、とても大切な御書の一節だと思いましたので。