投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2017年 2月14日(火)09時30分21秒   通報
【第6回】春光る太陽の王国宮崎

2010-2-19

励まそう一人でも多く!

宮崎研修道場に着いた池田名誉会長が、そのまま庭の方へ歩き始めた。平成11年
(1999年)2月26日午後。沖縄から空路、宮崎に飛び、車で20分ほど走った、
その足である。庭では、「守る会」をはじめ3人の友が、手を真っ黒にしながら、
懸命に作業している真っ最中だった。

「何をしているの?」3人に声がかかった。
「あっ!」。振り向くと目の前に名誉会長がいた。
「守る会の方だね」
「ありがとう。寒い中、誰も気づかないところで、必死に道場を守ってくださっ
ている。私は絶対に陰の人を忘れないよ」

名誉会長は手袋をはずし、手を差し出した。慌ててズボンで手をこすった守る会
の友。握った手の温もりに、涙がこみ上げてきた。昭和62年(87年)の開所以来、
道場を守り育ててきた苦労が、いつぺんに報われた気がした。名誉会長は幹部の
方を向くと、諭すように言った。「私は会長になって以来、いや、なる前から、
学会を支え、守ってくださる方を一番大事にしてきた。

この魂がある限り、創価学会は永遠に発展していく」友は、心からうなずいた。
東京から来て、大物ぶり、威張りちらす人間には、何度も悔しい思いをさせられ
てきた。その中で、総務の時代から、名誉会長は違っていた。昭和33年(58年)
8月の初訪問以来、宮崎への激励行は10度。初代支部長の甲斐速水さん一家を
はじめ、共戦の友への激励。青島や関之尾滝での語らい。

3400人の記念撮影会。1日5回、1万人との自由勤行会ー。友がいつも見た
ものは、「一人を」、そして「一人でも多く」励まそうとする師の執念であった。
「日向」ー〃日の出に向かう〃宮崎の豊かな国土を讃え、「〃太陽〃といえば、
宮崎を思い出す」「宮崎の若き開拓者の諸君よ、太陽に向かって、決然と立ち上
がれ!」と、いつも希望を贈ってくれた。

「まこちうれしい(本当にうれしい)!」名誉会長が都城地域の同志に、方言で
呼びかけた。平成3年(91年)2月の9度自の訪問。12日、都城文化会館での都
城圏・小林圏記念勤行会である。会場に入るや、一人の年配の婦人に声をかけた。
早田フクマツさん。小柄な体で、ピアノの陰に隠れるように座っている。参加者
には、名誉会長が早田さんを探し出したように思えた。〃先生、よくぞ……〃

早田さんを知る人は皆、心で泣いた。リーダーとして信頼厚かった愛娘を、前年
に病で亡くされていた。悲しみを飲み込んで、こつこつと、真面自に広布に尽く
してきた功労者の一人だった。名誉会長は、早田さんを最前列に招いた。「本当
にいい顔をしている」「貴婦人のようだね」当時、都城圏婦人部長の加賀幸子さ
ん(現・宮崎戸田県総合婦人部長)は、2月になると胸が熱くなる。

「〃かき分けてでも励ましたい〃という先生の心に、あの時、触れたのです」青
き太平洋。吹き抜ける春一番の風。同志が一茎一茎、持ち寄った菜の花が、揺れ
て輝いていた。平成3年2月10日朝。研修道場(当時=聖教新聞宮崎研修センター
)の庭を歩きつつ、名誉会長が残した言葉は、永遠の勇気の源泉として、こだま
し続ける。「宮崎は『前進』。これからも前進!『前進』と『大勝』でいこう!」