投稿者:臥子龍メール 投稿日:2017年 2月 7日(火)17時30分21秒   通報
人革12巻「宣言」より
戸田の思索は、核兵器が戦争の抑止力になり、それによって平和が維持されるという、核抑止論に及んだ。

これは、″水爆という未曾有の破壊力をもつ兵器が登場したことによって、もはや、戦争になれば、互いに共倒れすることになるから、戦争はできない″という考え方に始まっている。彼は、この核抑止論をもたらしているものは何かに、思索のメスを入れていった。

″核抑止論者は言う。――たとえば、核兵器をもって先制攻撃をしかけ、仮に一千万という人を殺したとしても、生き残った者が報復攻撃によって、何千万もの人を殺せるから、結局、核兵器が戦争の抑止力になる、と。

しかし、そんな思考自体が、人間精神の悪魔的な産物ではないか。この抑止力とは、人間の恐怖の均衡のうえに成り立ったものだ。

したがって、互いに相手が、より高性能で破壊力のある核兵器を開発し、装備することを想定し、際限のない核軍拡競争という悪循環に陥らざるを得ない。そこに待ち受けているものは、悪魔の迷路といってよい″

戸田城聖は、核抑止論の行き着く先を考えた。
″この考えに立つ限り、早晩、多くの国々が、安全を確保するためには核を持たなければならない、という発想に陥り、それが一切に最優先される時代が来よう。その結果、核兵器は全人類を何度も抹殺するほどの量となり、地球をも壊滅させ得る怪物へと肥大化していくにちがいない″

戸田は、ここまで考えると、この二十世紀という時代に現れた、黒々とした深淵をのぞき込むような思いに駆られた。深淵の様相は定かではないが、まさしく、人類が遭遇するであろう最大の地獄であろうと思った。それは、あの広島、長崎の原爆投下の惨状から、十分に推測することができた。

″原水爆は、これまでの兵器とは、その殺傷力においても、破壊力に、おいても、決して同列にとらえることはできない。いかに言葉を飾ろうと、人間の魔性の落とし子であり、人間の生存の権利を、根本的に脅かす運命的な兵器なのだ。そうだとすれば、原水爆の存在は、「絶対悪」として断じていかなくてはならないはずだ。

しかし、世の多くの指導者たちは、この恐るべき核兵器を、通常兵器の延長線上にあると考えている。それは、原水爆を実用に供する兵器にしようとするところから生まれた、あの「きれいな水爆」という言葉にも、端的に表れている″

戸田は、アインシュタインの「解放された原子力は、われわれの思考様式を除いて、一切のものを変えました」との言葉を思い出していた。

″アインシュタインの言うように、人類を死滅に追いやる原水爆の登場は、すべてを一変させてしまうのに、人間の考え方だけが変わっていない。

今、西側も、東側も、互いに、核軍拡競争に明け暮れ、相手が平和を望んでいないと非難し合っている。

しかし、最も大切なことは、イデオロギーに左右されるのではなく、原水爆こそ、人類の生存の権利を脅かす「絶対悪」である、この共通の認識に立つことではないか。

さらに、この魔性の産物である原水爆を使用する者も、また、悪魔であると断じていくことだ。野蛮の究極的な存在にほかならない原水爆の使用者を、人間は、人類の名において、決して許してはならない。絶対に! そして、この思想を、全世界に浸透させていくことだ″

戸田は、手帳を取り出すと、深い思いに沈みながら、考えをまとめでは記していった。
やがて、手を休めると、戸外の激しい雨の音に耳を澄ました。彼は、空模様が気がかりでならなかった。青年部東日本体育大会「若人の祭典」が、いよいよ明日九月八日に迫っていたからである。

戸田は、明日の三ツ沢の陸上競技場での体育大会は、愛する青年たちのために、ぜひとも、晴天に恵まれてほしいと思った。この体育大会は、彼自身にとっても、大きな意義をはらんだ大会であった。

彼は、この席上、原水爆に対する宣言を発表し、青年たちに託すことを、固く心に決めていたからである。

~中略~

戸田は、毅然としていた。強い気迫のこもった言葉が、マイクを通して陸上競技場の隅々にまで轟いた。

「それは、核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に起こっているが、私は、その奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う。

それは、もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。

なぜかならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利を脅かすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります。

それを、この人間社会、たとえ一国が原子爆弾を使って勝ったとしても、勝者でも、それを使用したものは、ことごとく死刑にされねばならんということを、私は主張するものであります」

戸田城聖は、まず、核兵器を、今世紀最大の産物としてとらえた。「魔」とは、サンスクリットの「マーラ」の音訳であり、「殺者」「能奪命者」「破壊」等と訳されている。つまり、人間の心を惑わし、衆生の心を悩乱させ、生命を奪い、智慧を破壊する働きといってよい。

そして、この「魔」の頂点に立つものこそ、第六天の魔王であり、それは、他化自在天王といわれるように、他を支配し、隷属化させようとする欲望をその本質とする。
この観点に立つ時、人間の恐怖心を前提にして、大量殺裁をもたらす核兵器の保有を正当化する核抑止論という考え方自体、第六天の魔王の働きを具現化したものといってよい。

彼の原水爆禁止宣言の特質は、深く人間の生命に潜んでいる「魔」を、打ち砕かんとするところにあった。

当時、原水爆禁止運動は、日本国内にあっても、大きな広がりをみせていたが、戸田城聖は、核兵器を「魔」の産物ととらえ、「絶対悪」として、その存在自体を否定する思想の確立こそが急務であると考えたのである。それなくしては、原水爆の奥に潜む魔性の爪をもぎ取ることはできないというのが、彼の結論であった。

それは、いかなるイデオロギーにも、国家、民族にも偏ることなく、普遍的在人間という次元から、核兵器、及びその使用を断罪するものであった。そこに、この原水爆禁止宣言の卓抜さがあり、それが、年とともに不滅の輝きを増すゆえんでもある。

戸田が、原水爆禁止宣言のなかで、原水爆を使用した者は「ことごとく死刑に」と叫んだのは、決して、彼が死刑制度を肯定していたからではない。

彼は、九年前の四八年(同二十三年)に、極東国際軍事裁判(東京裁判)で、A級戦犯のうち東条英機ら七人が、絞首刑の判決を受けた時、次のように述べている。

「あの裁判には、二つの間違いがある。第一に、死刑は絶対によくない。無期が妥当だろう。もう一つは、原子爆弾を落とした者も、同罪であるべきだ。なぜならば、人が人を殺す死刑は、仏法から見て、断じて許されぬことだからだ」

また、彼は、しばしば、「本来、生命の因果律を根本とする仏法には、人が人を裁くという考え方はない」とも語っていた。

では、その戸田が、なぜ、あえて「死刑」という言葉を用いたのだろうか。戸田は、原水爆の使用者に対する死刑の執行を、法制化することを訴えようとしたのではない。彼の眼目は、一言すれば、原水爆を使用し、人類の生存の権利を奪うことは、「絶対悪」であると断ずる思想の確立にあった。

そして、その「思想」を、各国の指導者をはじめ、民衆一人ひとりの心の奥深く浸透させ、内的な規範を打ち立てることによって、原水爆の使用を防ごうとしたのである。

原水爆の使用という「絶対悪」を犯した罪に相当する罰があるとするなら、それは、極刑である「死刑」以外にはあるまい。もし、戸田が、原水爆を使用した者は「魔もの」「サタン」「怪物」であると断じただけにとどまったならば、この宣言は極めて抽象的なものとなり、原水爆の使用を「絶対悪」とする彼の思想は、十分に表現されなかったにちがいない。

彼は、「死刑」をあえて明言することによって、原水爆の使用を正当化しようとする人間の心を、打ち砕とうとしたのである。いわば、生命の魔性への「死刑宣告」ともいえよう。

当時は、東西冷戦の時代であり、原水爆についても、東西いずれかのイデオロギーに立つての主張が大半を占めていた。戸田のこの宣言は、それを根底から覆し、人間という最も根本的な次元から、原水爆をとらえ、悪として裁断するものであった。

宣言を述べる戸田の声は、一段と迫力を増していった。
「たとえ、ある国が原子爆弾を用いて世界を征服しようとも、その民族、それを使用したものは悪魔であり、魔ものであるという思想を全世界に弘めることこそ、全日本青年男女の使命であると信ずるものであります。

願わくは、今日の体育大会における意気をもって、この私の第一回の声明を全世界に広めてもらいたいことを切望して、今日の訓示に代える次第であります」

宣言は終わった。大拍手が湧き起こった。感動の渦が場内に広がっていった。
戸田城聖が、この原水爆禁止宣言をもって、第一の遺訓とした意味は深い。日蓮大聖人の仏法が、人間のための宗教である限り、「立正」という宗教的使命の遂行は、「安国」という平和社会の建設、すなわち人間としての社会的使命の成就によって完結するからである。

戸田は、原水爆の背後に隠された爪こそ、人間に宿る魔性の生命であることを熟知していた。そして、その魔性の力に打ち勝つものは、仏性の力でしかないことを痛感していたのである。

原水爆をつくりだしたのも人間なら、その廃絶を可能にするのも、また人間である。人間に仏性がある限り、核廃絶の道も必ず開かれることを、戸田は確信していた。

その人間の仏性を信じ、仏性に語りかけ、原水爆が「絶対悪」であることを知らしめる生命の触発作業を、彼は遺訓として託したのである。

以来、この宣言は、創価学会の平和運動の原点となっていった。
三ツ沢の陸上競技場に集った五万余の参加者のうち、子どもたちを除けば、戦争にかかわりのなかった人は、一人としていなかった。

それだけに、原水爆実験の果てに、いつまた、あの戦争が勃発するかもしれないという強い不安に苛まれていたといってよい。

しかも、これから起こる戦争では、広島、長崎に投下された原爆を、はるかにしのぐ、大きな破壊力をもつ核兵器が使用されようとしているのである。もし、世界戦争が起これば、日本はもとより、世界中が廃墟となるであろうことは間違いない。

″もう、戦争はごめんだ″との悲願こそ、人びとの共通の感情であったが、そのために、学会員として、また、一人の人間として、何をなすべきかは、わからなかった。

しかし、戸田のとの声明は、暗夜の海に輝く灯台のように、進むべき進路を照らし出したのである。

青年たちの胸には、この時、人類が直面した未曾有の危機を克服する、新たな使命の火がともされたといってよい。だが、それはまだ、小さな灯であった。その火が、人びとの心から心へと、燃え広がり、平和のまばゆい光彩となって、世界をつつむことを実感できた人は、皆無に等しかったにちがいない。

山本伸一は、戸田城聖の原水爆禁止宣言を、打ち震える思いで聞いていた。彼は、この師の遺訓を、必ず果たさなければならないと、自らに言い聞かせた。そして、戸田の思想を、いかにして全世界に浸透させていくかを、彼は、この時から、真剣に模索し始めたのである。

伸一の胸には、数々の構想が広がっていった。しかし、彼は、はやる心を抑えた。それが、創価学会の広範な平和運動として結実していくには、まだ、長い歳月を待たねばならなかった。