投稿者:赤胴鈴之助 投稿日:2017年 2月 6日(月)14時14分41秒   通報
池田先生は昭和42年当時から現在の事を見通されていたのではないかと思える、
講義に愕然と致しました。
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御義口伝講義録下より 第廿三 久遠の事 御書P759
されば、久遠元初とは、先に述べたごとく、もはや、ある一定の時をさすのではなく、
この悠久に続きゆく宇宙の大生命、そして、三世常住に生死を繰り返し、無始無終に
続きゆく生命の究極、本源をいうべきか、これを、日蓮大聖人は「働かさず、繕わず、
本の儘」と仰せられたのである。
信心および生活に約していえば「働かさず」とは、まず一般的に犬が吠えるのも、
猫がなくのも、鳥がさえずるのも、皆これ「働かさず」であり、生命の自然の発動である。
信心に約していえば御本尊に唱題し、また広宣流布に活躍し、生命の奥底からの歓喜の
躍動のことである。
これは誰人が、与えるものでもない。自分自身の内奥から自然に発現するものである。
これ「働かさず」ではないか。また、自身の生命の上に築く絶対の幸福境涯である。
幸福は他から与えてくれるものではない。自身の生命の上に築いていくものである。
先の「自我偈始終の事」で述べた、真の自由自在の境涯である。これは、釈迦仏法の
ごとく歴劫修行や、天台家のごとく観念観法で、動かして築くべきものではない。
ただ御本尊と境智冥合するとき、われらの行住坐臥の振舞い、すべて大宇宙のリズムと
合致し、障りなく、悠々たる振舞いをしていけることが、無作三身の確立であり、まさに
「働かさず」になることを知るべきである。