投稿者:ロマン 投稿日:2017年 1月28日(土)16時50分0秒   通報 編集済
グリグリさん、総合経過年表に基づく資料の御掲示ありがとうございました。
私の方では20年以上前に、聖教新聞に掲載された森田一哉元理事長の寄稿文を掲載します。

人間革命の光 池田名誉会長の入信50周年に寄せて
第43回 創価の魂 理事長 森田一哉
一切の矢面に立ち一身にすべてを担って 三代の会長を貫く「殉教の魂」
会員を守り師を世界に宣揚 50年の激闘に深く感謝

私の人生の最大の幸せは、この一生の中で、牧口先生、戸田先生、池田先生という、創価学会三代の会長に、お会いすることができたことである。
私が、初めて牧口先生にお会いしたのは、中学二年の時。昭和十七年のことと記憶する。
翌年、先生は日本の軍国主義と戦い、牢獄に赴かれた。戸田先生も、行動を共にされた。牧口先生は、死して牢獄を出られた。
しかし、戸田先生は、二年間の過酷な獄中生活に耐え、「生きて」牢を出られた。もしも、戸田先生も牢の中で亡くなっていたら、今の創価学会はない。
なによりも重大なことは、戸田先生が「生きて」牢獄を出られなかったら、池田先生との出会いがなかった、ということだ。戸田先生と、池田先生の、不思議なる師弟の出会いがあったからこそ、今日の創価学会があるのだ。昭和二十八年八月二十四日、東京・蒲田の座談会場。この荘厳なる出会いの場面に、私は同席することができたのである。
戸田先生は、池田先生にお会いして、“この青年に、創価学会の将来、日本と世界の平和の未来を託そう”とのお心ではなかったかと思う。ゆえに、池田先生を、すぐ自分の会社の日本正学館に入社させ、膝下において、薫陶を始められた。
戸田先生は、池田先生を、本当に厳しく鍛えられた。池田先生は、戸田先生の第一の弟子として、どこまでも仕え切られた。その峻厳さは、とうてい言葉にすることができない。
戸田先生の事業が最も苦境の時、一切を支えておられたのも池田先生だった。会社は給料を払う余裕もなくなっていた。
一人去り、二人去り、戸田先生を守るために戦っているのは池田先生だけになった。
十一月の寒い時期に、池田先生は、開襟シャツ一枚で債権者の対応をされていた。一枚きりしかないオーバーも質屋に入れておられた。その姿は、今も私の胸に焼き付いている。
戸田先生に最も仕え切ったのが池田先生だったが、最も厳しく叱られたのも池田先生だった。
私たちの失敗も、すべて池田先生が矢面になって叱られた。ほかのだれかでは駄目だった。池田先生しか、戸田先生のお心を真に理解し、受け止めることができる人がいなかったのだ。
戸田先生が亡くなられた後、池田先生から、戸田先生に何回くらい叱られたことがあるか、聞かれたことがある。私は、「目の玉が飛び出るほど、厳しく叱られたのは、四、五回くらいです」と答えた。池田先生は、「私は数え切れないくらい、おこられたよ」と述懐しておられた。
まことに申し訳ない限りだが、私たちにとって、池田先生は“防波堤”のような存在だった。
それは、先生が会長に就任してからも同じだった。先生の半世紀は、師匠を守り、会員を守るために一切の矢面になっての激闘の連続であった。
宗門との関係においても、どれほど先生が心を砕かれ、苦労されたことか。私自身、日顕をはじめ、宗門のあまりにも非人間的な対応にも、大きく包容される先生をそばで見ていて、「先生は、本当に忍耐強いですね」と思わず、口にしたことがあるくらいだ。
そして、先生は、世界中で牧口先生、戸田先生の偉大さを宣揚されてきた。世界広布の旅には、常に戸田先生のお写真を携えられて。
先生と対話する世界の識者は、先生の姿の中に牧口、戸田両先生の偉大さをみる。代々会長の名を冠した通りや公園が、ブラジルに次々と誕生している。これは、一つの証左である。
牧口先生は牢獄で殉教された。戸田先生は、「七十五万世帯」の願業達成のために、身命を削られ、五十八歳の若さで亡くなられた。そして、池田先生は、学会のために命をなげうって、戦い抜いてこられた。殉教こそ、代々会長が身をもって教えてくださった、創価学会の根本精神である。
つくづく私は、池田先生という偉大なる指導者のもとで、広布に生きられる我が身の幸せ思う。私は牧口先生にお会いし、戸田先生に直接、訓練を受けたが、お二人の本当の偉大さを知ることができるのは池田先生のお陰である。
私がひたすらに願うのは、いつまでも池田先生が、お元気で広布の指揮を執ってくださることだ。そして、私自身、報恩と感謝をかみしめながら、広布に生涯を捧げていく決意である。

森田一哉(もりた・かずや)
神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。学会草創以来、歴代会長のもとで、広宣流布に挺身してきた。現在、四国総主事なども務める。昭和十七年四月入信。七十一歳。
注)上記の略歴は掲載当時のもの。