投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2017年 1月17日(火)18時48分47秒   通報

(韓国SGI・圏長 趙日永さん)
(聖教2008/6/21)

世界の同志の皆さん、ようこそ日本へ! 今回、SGI(創価学会インタナショナル)の研修会で来日した7カ国・地域のメンバーの中から、韓国SGIで圏長として、社会で大学教授として活躍する趙さんの体験を紹介します。

首都・ソウルの南方約40㌔に位置し、近年、大きく発展している龍仁(ヨンイン)市。80万の人口を擁する同市で、圏長として活躍しているのが趙日永(チョイリヨン)さん(54)である。安城(アンソン)市にある斗源(ドウウォン)工科大学の教授として教壇に立ち、学生たちからも慕われている。

これまで韓国自動車工学会の事業理事、財務理事を歴任してきた。同工学会には、国立ソウル大学など、韓国内の著名な大学の教授らが名を連ねている。工学博士である趙さんの専門は、自動車エンジンの開発・研究だ。

韓国では、政府の主導の下、環境技術開発事業(G7)が推進されてきた。趙さんも、そのG7プロジェクトの一環である、「次世代自動車新技術開発」に参加。地球温暖化の防止対策の一つである自動車の排ガスの抑制ななどが課題だったが、大きな成果を挙げることができた。

こうした実績が評価されて、自動車工学会理事への就任となったのであろう。現在の活躍からは一見、順風満帆な人生のように見えるが、過去には、数々の苦労と、宿命との戦いがあった――。

●京都留学中に入会

1954年、大都市の大田(テジョン)で、5人兄弟の長男として生まれた趙さん。大切に育てられ、1982年、国立忠南(チュンナン)大学工学部を卒業。この年に鄭正淑(チョンヨンシュク)さん(地域副婦人部長・52)と結婚した。

翌1983年、日本の京都にある私立大学の大学院に留学。夫婦で来日した。そのとき、面倒を見てくれたのがH・T春さん(大阪府・地区副婦人部長・59)。大阪から京都へ足しげく通ってくれた。

Hさんは、池田SGI会長の書籍などを贈呈し、丁寧に仏法の理念を説明した。その人柄に引かれ、仏法に興味をもった妻は、唱題を実践するようになった。趙さんも偶然、十界論を説明したビデオを見て、信心に興味を抱くようになった。

1989年、長女の文熙(ムニ)さん(女子地区リーダー)が突然、腎臓炎を発症。医師からは、完ぺきな治療は困難といわれたが、妻は懸命に祈った。すると不思議なことに、わずか1カ月で完治した。〝この仏法には力がある!″――そう確信した趙さんは同年8月24日に入会した。妻の入会の1週間後だった。

●帰国―両親の信心反対で生活苦―宿命転換へ

翌1990年、3月に工学博士号を取得し、4月に母国へ戻った。両親が住む大田に戻り、喜々として仏法の偉大さを語った。ところが両親は大反対。それどころか、宗教が違うことを理由に、経済的な援助は一切、断ち切られてしまった。

一家の主としての責任が、次第に重くのしかかる。「どうして、こんな苦労をしなければならないのか……」。思わず愚痴が出る。

そんな趙さんを、妻は「今こそ宿命転換のチャンス。先輩幹部に指導を受けよう」と励ました。しかし、趙さんの心は動かない。片意地も、長くは続かなかった。仕事を探すための日々の交通費にも事欠くようになり、ようやく指導を受けるに至った。

先輩は「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひたま給うべし」(1192-16 四条金吾殿御返事)などの御書を拝し、〝祈りは必ず叶う″と教えてくれた。

趙さんの心が、絶望から希望へと変わった。妻と共に、朝から弁当を持ってSGI(創価学会インタナショナル)の会館へ行き、心ゆくまで唱題に挑戦した。

1カ月後、諸天善神が動いた。ある大学教授の紹介で、光州(クァンジュ)広域市にある、白動車技術研究所のエンジン試験課長として就職が決まったのだ。

●首都ソウルで大学教授、広布の庭では「配達員」も

光州では、勤行・唱題に挑戦し、座談会にも積極的に参加した。しかし首都・ソウルで自分の専門性を発揮したいとの思いが募る。そう願い、祈った。すると、ソウル近郊にある現代自動車グループの総合研究所に職場を移ることができた。

1993年には、龍仁市にマイホームを購入。研究責任者として昇進し、広布の庭では地区部長、支部長として活動するようになった。専攻分野の研究に力を注ぎながら、時間をこじ開け、唱題の時間を増やし、家庭指導にも全力を挙げて取り組んだ。

ある日、職場の部下が大学教授募集の新聞広告を持ってきた。斗源工科大学だった。志願書を提出したが、約1カ月後に郵便で不合格の知らせが届いた。

がっかりし、その日の夜、活動から帰ってきた妻に結果を告げて間もなく、大学から電話があった。「郵便物の内容は間違っており、書類審査は合格しました。指定された日に面接を受けてください」との連絡。泣き笑いの瞬間だった。〝祈りは必ず叶う″との確信をさらに深めた。

1994年3月、教授に就任。教壇に立ちながら、大学財団の企業研究所で、自動車エンジン分野の研究もできるようになった。紛れもない功徳だった。

仕事が多忙になっても活動は一歩も引かなかった。友の激励に汗を流した。4年間、韓国SGIの機関紙「和光新聞」の配達もした。週刊であるが、水曜日のたびに、80キロ道のりを配った。

1998年5月、池田SGI会長に慶熙(キョンヒ)大学から「名誉哲学博士」の学位が授与された。その答礼宴の席で、SGI会長と間近に接することができた超さん。〝生涯、師と共に歩もう″との決意を、一段と固めた。

2005年は趙さんにとって節目の年になった。5月15日、韓国SGIが主催する「国を愛する大祝典」が、10万人の青年らによって開催され、大成功を収めた。この活動で、趙さんが圏長を務めていた圏が2圏に発展。その一つ、龍仁圏の圏長として、広布の第一線に立つ。

またこの年、あれほど信心に反対し続けた母がSGIに入会した。すでに亡くなっていた父への最高の供養になった。